ECD : 失われたWANT LIST - 八代亜紀『MU-JO / 愛しすぎる女 / 残心 / 赤い街』 [2013-12-06]

 八代亜紀である。演歌である。

 演歌といえば少し前に読んだ『創られた「日本の心」神話「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(輪島裕介著)という本が面白かった。≪現在の意味での「演歌」が昭和四十年代にようやく成立した≫というのがこの本での著者の主張である。中でも≪『平凡パンチ』と「演歌」≫という頃で紹介される≪当時の若者文化における「エンカ」の位置付け≫の推察は興味深いものだった。しかしその当時十歳前後だった自分にとって演歌は大人が歌い大人が聴くものだった。男女共に着物姿、そうでなければ男性ならスーツ、女性ならロングドレスという演歌歌手の衣装がなによりもまず子供の僕にそう思い込ませた。それはひと目で若者向けとわかるGSやフォーク、またはアイドル歌手のいでたちとは一線を画していたので、著者のこの推察は意外だったのだが、ここで著者が紹介するのは『平凡パンチ』の演歌特集だったり、レコード会社がした若者に向けた演歌の売り込みだったりとあくまで送り手側のことで、当時の若者が実際にどう演歌を受容していたのかまで推察が及んでいるわけではない。かくいう僕も当時は若者になる前のまだ子供。役に立つような証言はできない。

 果たして、当時の演歌に夢中になりその後も演歌を追いかけ続けて今やシルバー世代、というようなひとたちがいるのかどうか。そんなことを考えてしまうのは僕の中で演歌はある年齢に達すると受け入れられるようになる音楽という思い込みがあるからだ。だから、例えば氷川きよしを追いかける中年女性は若い頃は何を聴いていたんだろう、などということが気になってしまう。そして、もっと気になっていたのが自分もある年齢に達すれば演歌を好んで聴くようになれるのかということだった。

 和モノを掘り始めてからも演歌の中古盤に手を出すことはなかった。サンプリングしたくなるような気の利いたアレンジが施された曲が演歌にあるわけがないと思い込んでいたのだが、それがある一枚のレコードをきっかけにがらりと変わった。『矢車の花 / 北原ミレイ』というアルバムである。この中に八代亜紀の「舟唄」のカバーが収録されていて、その演奏がBPM70というテンポもあいまって当時の自分が求めていたグルーヴにぴったりフィットしたのだ。それで八代亜紀のオリジナルもチェックしてみると、こちらの演奏も同様のアレンジで、北原ミレイバージョンが特に際立っているというわけではなかったものだから、自分の中で演歌ヤバイかもしれないという気運が高まった。前後してUSのラップ・アーティストが演歌をサンプリングしている、なんて情報も耳に入るようになる。

 そして、坂本冬美の「また君に恋してる」のヒット。キング・クリムゾンの「ムーン・チャイルド」に似てると話題になったこの曲で僕は初めて演歌のCDをリアルタイムで買うことになった。収録されているインストをエディットしてラップを乗せてみたりもした。それからもラジオで耳にした吉幾三の新曲を買ってみたりと、中古盤を掘るよりも新譜をチェックするという方向で僕は演歌とコミットするようになる。そんな中で情報源になったのが「NHK歌謡コンサート」である。八代亜紀の「MU-JO」もこの番組を観て気に入ってCD(日本コロムビア / COCA-16771)を買い求めた。

 こんな番組を観ているとさすがに自分ももう立派なオヤジに成り果てたと思うしかないのだが、正直なところMステなどよりよっぽど観ていて楽しめるのである。これは自分もついに演歌がわかるような年齢に達したということなのだろうか。そこのところはまだよくわからない。一方ではあいかわらずラップの新譜もガシガシ買っているのだがら。ただ、求めているものはどちらにも共通しているのだ。まったく正反対のものを求めてある時は演歌、またある時はラップを聴くというわけではない。特に「MU-JO」についてはそうだ。元メガデスのメンバーとして知られるマーティン・フリードマン作曲ということで八代亜紀がロックにチャレンジと言われているこの曲だけれどBPM70というこのグルーヴはむしろ最近のラップにハマっている耳にこそフィットする。八代亜紀の歌唱もロック調だからといって下手に自分のスタイルを変えることなく、それでいて、一ヶ所だけ挿入される英語詞の部分は見事にロック・ヴォーカルとして成立している。このCD、あくまで「MU-JO」目当てで買ったのだけれど他の3曲も素晴らしい。今の日本の歌謡界の底力を見た思いがする。