ECD : 失われたWANT LIST - ザ・タイガース『ヒューマン・ルネッサンス』 [2014-03-21]

 ついこの間のこと、

"DJの最中に「GSかけてくれたらずっと踊ってあげるのに」って言われてぶんなぐってやろうかと思った。"

 というツイートを見かけた。このぶんなぐられそうになった客にとってGSは踊れる和モノの代名詞なのだろう。ぶんなぐるかわりにこのDJ氏は『ヒューマン・ルネッサンス』でもかけてやればよかったのに、と思う。GSの王者ザ・タイガースのアルバムだから文句も言えまい。そして踊れるものなら踊ってみせてほしい。それくらい『ヒューマン・ルネッサンス』は踊れない(11曲目「割れた地球」だけはロックで踊れるかもしれない)。 

 当たり前だがGSとひとことで言っても音楽性は様々である。そして後世の再評価でスポットが当たる部分も時代によって変還をとげてきた。僕は'60年生まれなのでリアルタイムでのGSも記憶に残ってはいるが、ブームが去ったあとでもGSを聴く者がいるのを知ったのは'77年、17歳の時だった。劇団に参加して知り合ったバンド連続射殺魔の関係者でもあった男がザ・ジャガーズの「ダンシング・ロンリー・ナイト」を「これ、石田のための曲だな」と教えてくれたりした。鈴木いずみがGSへの偏愛を語るものを読んだのもその頃だ。明大前の「モダーン・ミュージック」には昔からGSのコーナーがあったし、アンダーグランドでGSは愛されていた。

 それから更に10年、海外で日本のGSがガレージ・サイケとして再評価され海賊盤のコンピレーションが続々リリースされる。ネオGSもこの頃だ。その流れで'94年にはGSのガイド本の決定盤「日本ロック紀GS編 - 黒沢進著」が出版される。これでGSの評価は固まったと思われたがそうでもなかった。'96年に出た「日本ロック・フォーク・アルバム大全 1968-1979」にGSから取り上げられたのはゴールデン・カップスやハプニングス・フォーなどごく少数で、スパイダースもタイガースもテンプターズも取り上げられていない。それが'OO年に出た同書の増補改訂版「ラブ・ジェネレーション 1966-1979」では一転してほとんどのGSが分けへだてなく取り上げられている。四年間でGSに対する評価がガラッと変わっているのだ。

 ところがそれでも取り残されたのがこの『ヒューマン・ルネッサンス』に対する評価だった。「ラブ・ジェネレーション」で『ヒューマン・ルネッサンス』は取り上げられはしたものの否定的だった。それに対して去年出た「日本ロック&ポップス・アルバム名鑑 1966-1978」では「ラブ・ジェネレーション」での評に異議を唱えているともとれる論調での高評価が与えられている。やはり去年出た新書「ザ・タイガース 世界はボクらを待っていた - 磯前順一著」(集英社新書)でも『ヒューマン・ルネッサンス』はメンバーが主体的に制作に関わった唯一のアルバムとして、その録音プロセスの紹介に多くの紙幅を割いている。その中で明らかにされているのだが『ヒューマン・ルネッサンス』はストーンズでもビートルズでもなく、ビージーズに強い影響を受けて出来たアルバムであったのだ。これが長らく不評を買っていた要因ではないだろうか。単純な話、ビートルズよりストーンズよりビージーズを高く評価する論者がいるとは思えない。

 それにしても何故ビージーズだったのか?断っておくが僕はタイガースのビージーズ路線はビージーズそのものより好きなくらいだ。リアルタイムに子供心に受けたインパクトもそうだったし、加橋かつみがリードを取った美しい曲が記憶に残っている。あの少女趣味は一体どこから来たのか。当時の日本では男が髪を伸ばすことが即、女性化として受け止められたのだが、そこから導かれた少女趣味であっただろうことは想像できる。海外の場合、例えばビートルズでも髪を伸ばすのと同時にひげを伸ばしたから長髪イコール女性化ということはなかったように思うが、そういう意味でGSの少女趣味は海外のロックにはなかった日本独自のオリジナリティとも言えるのではないか。そして、アルバム全編少女趣味満載の『ヒューマン・ルネッサンス』は最もGSらしいアルバムであり最もオリジナリティにあふれた作品なのだ。

 実際『ヒューマン・ルネッサンス』のような音楽をもっと聴きたいと思っても他に何かあるのかすぐには思いつかない。強いて挙げれば後に出た加橋かつみのソロ諸作か。