Interview » vol.149

Second Royalイベント10周年記念特集 Part.3 - 小山内信介 2万4千字インタビュー(前編)

2010-11-30

今年2010年でイベント10周年を迎えた、京都を代表するインディ・レーベル、Second Royal。レーベル当初から彼らを応援してきたJET SETでもその10周年をお祝いすべく、今年は一大キャンペーンを敢行。JET SET Online Shopの特集記事でもSecond Royalをがっつりフィーチャーしました。すでに公開されている「Part.1 新世代DJ特集」「Part.2 Halfby X 80kidz Talk Session」に続いてその締めくくりを飾るのが、この「Part.3 小山内信介2万4千字インタビュー」。レーベル社長であり、Second Royalの10年間においてその全ての中心にいた小山内さんに、その青森での生い立ちからレーベル立ち上げ秘話、さらに人生の野望までを超存分に語ってもらいました。これを読めばSecond Royalをきっと1000倍楽しめるはず。ではでは、長いのでじっくりお付き合いください!

(前編、後編の2回にわたってお届けします)

Interview/Text: Ryota Tanaka(JET SET KYOTO)

10周年記念ノベルティ・プレゼント・キャンペーン開催!

「Second Royal DJs Live Mix」CD-Rをプレゼント!

詳しくはこちらから!

Second Royalイベント10周年記念ノベルティ・プレゼント・キャンペーン開催! - JET SET News

キャンペーンは終了しました。

「生まれたのは青森県の野辺地っていう町。」

  • 今日はじっくり話していただきます。よろしくお願いいたします。
  • 小山内よろしくお願いします。
  • まず、小山内さんの出生についてお聞きします。生年月日は?
  • 小山内昭和53年(1978年)10月12日生まれ。
  • 生まれはどちらになりますか?
  • 小山内青森県。生まれたのは野辺地っていう町。
  • ご両親は青森の方なんですか?
  • 小山内両親の実家が青森で、2人は東京で出会ったんだけど、どっちも青森出身。父が青森市で母が野辺地。僕が生まれた頃は、父は普通に会社勤めをしていて結構いろんなところを転勤していた。幼稚園の頃だと思うんだけど「北海道のどこかの湿原を歩いてる」っていうのが一番古い記憶。
  • 北海道にはいつまで?
  • 小山内幼稚園の年少。年中くらいの時に父が会社を辞めて、青森市に引っ越して弁当屋を始めた。本屋か弁当屋で迷って本当は本屋がやりたかったらしいけど、金になるのは弁当屋じゃないかということで弁当屋に。それからは高校卒業までずっと青森市。
  • お父さんはどんな方ですか?
  • 小山内結構自分に似たところがあると思う。温和で怒ったところを見たことがない。酒を飲んで記憶をなくすことも自分と同じ(笑)。結構ハメはずす系の酔い方で、帰ってこなかったりとか朝起きたらいなかったりとか。
  • その背中を見てきたから、今の毎夜泥酔している小山内さんがいるわけですね(笑)。お母さんはどんな方ですか?
  • 小山内涙もろくて、子供のことをすごく愛してる。思春期とか反抗期の頃は過剰に感じたこともあったけど、こうやって離れてると本当ありがたく感じる。
  • 涙もろいのは母親ゆずりなんですね。小山内さん自身は幼少の頃どういう子供だったんですか?
  • 小山内どちらかというと元気な子供。小学校に入ってからは空手と野球をやってて、地区の野球チームには小1からいた。だから6年間野球をやってた。で、中学はバレー・ボール。
  • スポーツ少年だったと。性格なんかは今と変わってなさそうですけど、どうですか?
  • 小山内そうだね。クラスの学級委員とかもしてたんだけど、でもある時期に自意識が強くなってからは、そういうのがカッコ悪いとか思い始めて。今考えると恥ずかしいけど、ワルい自分を出していきたいとか思ってた(笑)。根は全然そうじゃないのに。
  • 高校時代はどんな感じでしたか?
  • 小山内高校はわりと進学校で、東大とかにも何人か行ったりするようなところで。でもその高校に受かったのも結構よこしまな感じというか、くだらなくて。中学でも別に頭は良くなくて順位で言えば中盤あたりをうろうろしてたんだけど、ある日親に「30番以内に入ったら10万円お小遣いあげる」と言われて、めっちゃCD買えると思ってがんばった(笑)。
  • 高校での成績は?
  • 小山内それも中盤くらい。みんな賢かったから。理系のクラスと文系のクラスがあって、理系は男子ばっかりで、女子は10人とかそれくらい。文系は半々くらいだったのかな。僕は文系だったから、結構楽しく過ごしてた気が。
  • 彼女もいた?
  • 小山内高3の頃に付き合った女の子が、音楽の話なんかができる初めての彼女。映画とか本の話もできたから、向こうが好きな物をこっちも好きになったりして。その子は茨城のデザイン系の美大に行ったので、大学に入ってからしばらくは遠距離。一回茨城にも行ったんだけど、芸大だから結構ハードコアで周りの奴らとか個性が強くて、ここに染まってんのかあって。ちょっと距離を感じたのを覚えてる。
  • 大学は京都の立命館に進学されるわけですけど、京都に行くことを決めた理由はなんですか?
  • 小山内単純に都会に出たかった。候補は東京か京都だったんだけど、友達が何人か立命だったし一人で行くより寂しくないかもっていう程度だったなあ。

「下北に憧れる青森の田舎者そのままっていうか。」

  • 小さい頃から音楽好きだったんですか?
  • 小山内親がレコードをいっぱい持ってて、Beatlesとかそういうのは家にあった。父親がジャズ好きで、ジャズのレコードもいっぱいあって、ジャズ喫茶にも通ってたみたい。もちろん小学生の時はそんなの興味なくて、音楽聴いてライヴも観に行くっていう友達が周りにいたんだけど、流行ってたのはユニコーンとかJUN SKY WALKER(S)とかブルーハーツとかXとか。その中でもジュンスカがよく青森に来てて好きだった。小4から小6くらいまでは友達と一緒にジュンスカを毎回観に行ってました。
  • じゃあTVに出ないような音楽を掘り下げていったきっかけは?
  • 小山内中学の時、音楽に詳しい友達がいて。小学校の頃からの友達で一緒にジュンスカ観に行ったりもしてたんだけど、そいつが結構マニアックなタイプだった。小田原君っていうんだけど彼が僕の中でキーマンで、中学の時は彼の家に入り浸ってた。うちはアパートだったんだけど小田原君とこは一軒家で、自分の部屋もあった。で、部屋にいたら、お母さんがお盆でケーキとか持ってきてくれる、みたいな。部屋の広さは10畳くらいあって、パソコンもあるしギターもある。で、最初は小田原君と一緒にメタルをめちゃめちゃ聴いてた。小田原君の家に『Burrn!』(ハード・ロック/ヘヴィ・メタル専門誌)がいっぱいあったから、興味を持って読み始めた。「何、この髪の長い人たち?」って(笑)。で、最初は2人で同じCDを聴いてたんだけど、テープを交換するようになって、相手が持ってない曲を入れないとダメだという雰囲気になってきた。それがきっかけで自分が好きな傾向とかもわかって。まあ、それがジャーマン・メタルなんだけど(笑)。HelloweenとかGamma Rayとか。
  • 小田原さんはジャーマンじゃなかったんですか?
  • 小山内小田原君は『Burrn!』を良いバランスで聴いてたと思う(笑)。全部泣きとか叙情じゃなくてスラッシュも聴きつつ、みたいな。でも僕もスラッシュも聴いてたよ、Slayerとか。だからまあ2人で『Burrn!』を万遍なく(笑)。その時流行ってたメタルはとりあえず片っぱしから聴いて。さらに小田原君は結構掘るタイプだったので、メタルに繋がるハード・ロックとかルーツっぽいロックなんかも買ってたから、それも一緒に聴かせてもらって、っていう。
  • もうちょっとインディ寄りの音楽を聴いたきっかけはなんだったんですか?
  • 小山内わかりやすいのはMegadeathかなあ。Megadeathの"Anarchy in the U.K."のカヴァーがすごく好きだった。最初はわからずに聴いてたんだけど、次第にこの曲はカヴァーらしいぞって話になって、そこでSex Pistolsを知って、そこからパンクに行った。Sex Pistolsを聴いて、その流れでClashやJamを聴くようになって。それでメタルから離れていったんだよね。その頃になるとNirvanaがカッコいいってのもわかるようになってた。っていうのが中3から高1くらい。で、ある時、小田原君のテープに今まで聴いたことのない音楽が入っててビックリしたんだけど、それが渋谷系の音楽だった。小田原君が渋谷系を聴き始めたんだよね。それから2人でそういうのを聴くようになった。
  • そのテープに誰の曲が入ってたか覚えていますか?
  • 小山内たぶんFlipper's GuitarとKahimi Karieが1曲ずつ入ってたんだけど、曲名は覚えてなくて。なぜか鮮明に覚えてるのが、Throw That Beat in the Garbagecan!の"Lotgi Go Go"(当時人気を博したドイツのインディ・ポップ・バンドの代表曲)。
  • オリジナル・パンクを聴いてた頃には、同時代の洋楽のロックとかは聴いてなかったんですか?
  • 小山内いや、聴いてたよ。当時ブリット・ポップが主流だったから、主にイギリスの音楽を。OasisとBlurが人気あって、Blurの方が良いなあって思ってた。それと並行してモッズも聴いてたんだよね。Blurの"Park Life"のヴィデオ・クリップには『さらば青春の光』のジミが出てくるし、その辺が自分の中で繋がってて、ブリット・ポップと一緒にSmall Facesみたいな'60年代物も聴いてたしGSとかもその流れで聴いてた。その頃、デキシード・ザ・エモンズがちょうどK.O.G.Aから出してて。
  • そのあたりだと、渋谷系ともなんとなく繋がってますね。
  • 小山内うん。だから、K.O.G.AにCrue-LとTrattoria、そのあたりを同時に聴いてた。
  • なんでも万遍なく聴いてる感じだったんですね。普通はもうちょっとここが好きってスポットで聴きそうな気がしますけど。
  • 小山内うーん、今こうやって話してみると確かにそういう感じがする。
  • 当時の一般的な高校生からしたら、K.O.G.AやCrue-LやTrattoriaってどれくらいの認知度があったんですか?
  • 小山内それは、ほぼゼロでしょう。オザケン(小沢健二)を知ってる人が僅かにいるくらいで。オザケンは当時『笑っていいとも』にも出てたし。オザケンが『いいとも』に出るっていうから学校からダッシュで帰った記憶がある(笑)。青森では『いいとも』が夕方5時からの放送だったから。「お昼休みはウキウキ・ウォッチング」の意味がずっとわかってなかったんだけど(笑)。
  • 小田原さん以外の音楽友達はどういうふうにできたんですか?
  • 小山内中学の頃ドラムを少しだけ習ってたんだけど、それを聞きつけた高校の奴から誘われてちょこちょこバンドをやってた。最初はメタル・バンドに連れて行かれて、Ozzy Osbourneとか叩かされたんだけどすぐ辞めちゃった。ツー・バスもできないし(笑)。その後、Green Dayのカヴァー・バンドなんかを友達とやって。でも一つのバンドをずっとやってたわけじゃなくて、高3の時には小田原君とも一緒にやったりしてた。少年ナイフとかFlipper’s GuitarとかThee Michelle Gun Elephantとかカヴァーして。
  • 渋谷系とかブリット・ポップとかメロ・コアとか、分け隔てなく好きだったんですか?
  • 小山内そう。
  • 例えば、Corneliusが一番好きで、Green Dayはそれには負けるみたいなところもなかったんですか?
  • 小山内たぶん、なかった。
  • それもおもしろい気がしますけどね。普通はもうちょっと分けて聴きそうだから。
  • 小山内たぶん、都会じゃなかったっていうのもあるんじゃないかなあ。
  • なるほど。じゃあ、そのなかでも当時衝撃を受けた存在と言えば?
  • 小山内Thee Michelle Gun Elephant。ミッシェルは、最初たぶんCollectorsの前座で見て。Collectorsもモッズ流れで好きだった。ライヴの時はちゃんとリグレイのチューイング・ガムを買いに行ったりして。青森であんまりリグレイ売ってないから、結構がんばってる(笑)。で、その前座でミッシェルが出てきて「俺らのこと、誰も知らないと思うけど」って言って「Candy House」をやって、それがすっげえかっこいいと思った。それから青森に2回来たのは2回とも見に行ったね。
  • 中学時代と高校時代で、小山内さんの音楽の聴き方で変化したところはありましたか?
  • 小山内中学の時は何もわからずに、部屋で一人でヘッドバンギングしながら聴いてただけだったけど、高校の時はたぶんそれよりはわかってきて。で、さらなる情報をものすごく渇望してるわけ。都会に対する憧れもあるし。だから、Time Bomb(大阪・アメリカ村の老舗レコード・ショップ)の通販でレコードを買うようになった。Time Bombは通販用の冊子を出してて、それを見てるとCDじゃなくてレコードがたくさん載ってる。じゃあ買ってみようと思って。
  • プレイヤーは家にあったんですか?
  • 小山内あったね。それがきっかけで親のレコードを聴くっていう意識も出てきて。
  • ちなみに、初めて買ったレコードは?
  • 小山内これが、実は全然思い出せなくて。でも絶対日本人で、渋谷系まわりの人たちだったと思うんだけど。実はその頃買ってたのって結構ハズレが多かった。その頃は試聴もできないしコメントだけで買うしかなくて、買ってはみたもののあんまり良くないっていうのも多かったんだよね。だからあまり記憶にない(笑)。
  • 洋楽のレコードは買ってなかったんですか?
  • 小山内洋楽のレコードは…あ、わかった、Small Facesだ。モッズに傾倒してたから(笑)。ファッションもめちゃめちゃモッズだったし。渋谷系聴いてるモッズの格好した奴だった(笑)。その頃、地元にモッズ・バーがあって、お客さん全然いないんだけどレコード屋も併設されてるような店で、そこにSmall Facesのレコードが飾ってあった。見てたらすごく欲しくなって買ったんだ。それが最初に買った洋楽のレコード。あとはWhoの"My Generation"の上を見てるジャケットのやつ(UK盤)。France Galのベストもジャケットが良いなあと思って買った。部屋に飾りたい~とか思って(笑)。
  • 当時の国内のインディ括りで言えば、特に熱心に聴いていた作品は?
  • 小山内Sunnycharはすごく聴いてた。アノラックの女王であるヨシノモモコさんがThe Automaticsの前にやってたバンドで、『米国音楽』の付録CDに入ってたんだよね。それがきっかけかな。その流れで言えば、新井仁さんたちのRon Ron Clouもすごく好きだった。僕はRon Ron Clouにものすごく東京を感じてたと思う。それは、彼らは守備範囲が限定されていてわかりやすかったからなんだけど。下北に憧れる青森の田舎者そのままっていうか(笑)。だから、岡崎京子の漫画も好きだったし、Escalatorもそうだしね。あっ、そうだ、カジ君(カジヒデキ)もすごく聴いてた!高3の受験で東京行った時、渋谷のHMVに行ってカジ君のファースト・アルバム(『MINI SKIRT』)を買ったんだ。

「自分らでDJやりたいからイベント始めた。」

  • 今振り返ってみると、渋谷系の音楽のどういうところが好きだったんだと思いますか?
  • 小山内最初は「無いもの」に対する憧れ。青森にないものに対する憧れっていうのがすごくあった。『Popsy Rock!』(京都で発行されていたインディ・ポップ中心のファンジン)も買ってたし。だから、Escalatorと『米国音楽』、京都の『Popsy Rock!』っていうので、「東京と京都で何かが起こってるらしい」っていうのが、雑誌っていうメディアから伝わってきた。当時はネットなんかないからね。
  • その当時の渋谷系カルチャーにおいて、Escalatorや『米国音楽』に匹敵するような全国的な影響力を、京都の『Popsy Rock!』は持っていたんでしょうか?
  • 小山内そうだったと思うよ。やっぱり、情報の行き方自体が今と全然違ってたし。知りたいと思ったら雑誌やファンジンを読むしかない。だから、『米国音楽』を本当に食い入るように読んでたし。その中に京都の『Popsy Rock!』が面白いっていう記事があったら、実物を探したりして。で、たまたま青森で取り扱っているお店があった。
  • 値段は幾らくらいだったんですか?
  • 小山内800円くらいかな。まあ熱心に読んではいたけど、内容はコア過ぎて全然付いていけてなかったよ。当時でもマニアックな存在だった、Elっていう80年代のインディ・レーベルについて絞った特集だったりとか、雑誌全体がちょっとしたドラマ仕立てだったりとか、ほんとにファンジンって感じだったから。載ってるレコードを聴いてみたいっていうカタログ的な魅力はすごくあったけど、この雑誌をどういう人たちが作ってるのかとか、そのあたりはかなり漠然と、ふわふわとした感じ。
  • 発行していたPat Detectiveはデザイン事務所ですよね。
  • 小山内そうそう。Pat Detectiveは京都のデザイン事務所で、そのメンバーだった矢田和生さんが中心となって出したファンジンが『Popsy Rock!』。矢田さんは『Popsy Rock!』に続いてBambiniっていうインディ・レーベルを立ち上げて、今はJaponicaっていう京都のレコード・ショップとレーベルもやってる。で、『Popsy Rock!』は「Pop Mania」っていうクラブ・イベントもやってたんだよね。
  • 青森にいた頃から「Pop Mania」のことも知ってたんですか?
  • 小山内『Popsy Rock!』にイベントの話題やスナップが載ってたから知ってはいたんだけど、京都に行ったら絶対「Pop Mania」に行くぜ、ってほど盛り上がってたわけでもなかった。なぜかと言うと、そういうことが実際に行なわれてるっていう実感がなかったんだよね。で、大学に入ってすぐの5、6月頃なんだけど、Apples in Stereoっていう、当時非常に人気があったUSインディ・バンドを『米国音楽』が来日させて、京都では「Pop Mania」主催でClub Metro(京都の老舗クラブ)でイベントをやった。そのフライヤーを見て、これはぜひ行かねば!と。それで、Metroに始めて遊びに行った。
  • そこでなんとなく漠然としていたものが。
  • 小山内そう、カチッと形になった。「あ、こうなんや、DJがあってライヴがあって、こういう感じなんやな」って。Applesがライヴして、『米国音楽』の人がDJで、あ、『Popsy Rock!』ってこの人たちなんだ!って、全部がカチカチカチッと結びついて。そこから、「Pop Mania」に毎月通うようになった。「Pop Mania」はフライヤーもすごくかわいかったから、毎月集めたりして。
  • 当時、高橋さん(Halfby/高橋孝博)も「Pop Mania」のDJだったんですか?
  • 小山内高橋さんは「Part Time」っていう別のイベントをMetroでやってたね。「Pop Mania」でもDJしてたと勝手に思ってたんだけど、後で聞いたらやってなかったみたい。
  • 関西に出てきた当初、他にどんな場所に足を運びました?
  • 小山内関西に出てきてからは、とにかくめちゃめちゃライヴとかレコード屋とか行ってた。今まで見られなかったものが全部見られる。今まで買えなかったものが全部買えるって。Time Bombの中古放出日に並んだりね。「モッズ・メイデイ」にも行ったし。デキシード・ザ・エモンズのライヴも観に行った。大阪のロック・イベントも行ってたし、アノラックとかギター・ポップのDJイベントも行ってた。
  • その頃、アメ村には他にどんなレコード店があったんですか?
  • 小山内新譜の輸入盤中心のお店だと、Time BombとO-LevelとVelvet Moon。あとはJerry Bean。京都はSuper Milk。JET SETはまだできてなかった。
  • 京都の音楽友達は「Pop Mania」から拡がったんですか?
  • 小山内うん。最初仲良くなったのがMeton Milk(セカンド・ロイヤルの初期コンピレーションにも参加している京都のインディ・ポップ・バンド)。Meton Milkが「Pop Mania」でライヴしてて、フロントマンの岩崎(慎)さんがMCで「デモ・テープ作ったんで、終わったら声かけてください」って言ってて。で、テープもらいに行って、テープに電話番号書いてたから電話した。「すげえ良かったです」って。それがきっかけで遊ぶようになった。でも、Meton Milkと知り合う半年くらいの間は、ずっと一人だったね。Metroがどんなに満員でも、僕はずっと一人で踊ってた。
  • 今はすごく社交的じゃないですか。どうして当時は一人だったんですか?
  • 小山内これは結構リアルな話なんだけど、なまってたから。まあ今もなまってるんだけど、当時は自意識が強かったから(笑)。「どこ出身?なまってるね~」みたいに言われるのが、すごく嫌だった。だから、大学には全然友達がいなかった。「オレという奴そのものを見てほしいのに、どうしてなまってるっていうところにすげえ反応してくんだよ」っていうフラストレーションをすごく感じてて、あまり上手に人に話しかけらなかった。ビビってたから酒もそんなに飲んでなかったし(笑)。だから、ただでさえ身内感のあるイベントでそんなコンプレックス抱えてたら、自分から話しかけたりはできないよね。
  • なるほど…とにかく、最初に仲良くなったのは岩崎さんだったと。
  • 小山内そう、それから岩崎さんの周りの人たち、『Wonder Commet』っていうアノラック系のファンジンとかイベントをやってた女の子たちなんかと知り合って。で、大学1年か2年の時、祇園にあったGrooveっていうクラブで、岩崎さんとイベントを始めた。「Sun Crush」っていうイベントなんだけど、その最初のゲストDJが高橋さん。
  • レギュラーDJは、小山内さんと岩崎さんの2人ですか?
  • 小山内そう。で、フライヤーを作ってたのは当時の彼女っていう、美しい身内感(笑)
  • DJは「Sun Crush」の前から始めてたんですか?
  • 小山内いやいや、「Sun Crush」が初めて。自分らでDJやりたいからイベントを始めた。
  • 高橋さんを誘った理由は?
  • 小山内高橋さんはその時からイベントなんかですごく目立ってて、DJの選曲も本当良くて。既に高橋さんのカラーもあったし、人気もあった。まだ曲作りとか何もしてなかった頃だけど。
  • 周りから一目置かれるような?
  • 小山内そうそう。矢田さんとかになるとかなり年上なんだけど、高橋さんはまだ近いっていうか。僕の3つ上かな。矢田さんだと倍くらいになるから。だから、ちょっと近い存在のなかで最も面白いDJ。
  • 小山内さんにとって高橋さんはどんな存在でした?
  • 小山内憧れっぽい感じ。DJも上手だし、かっこいいし。『Popsy Rock!』で原稿を書いたり、TrattoriaのイベントでVJしたりとか、若いのにいろいろ繋がりもあってすごいなーと。でも気取ったところがなくて、すごく気さくだし面白いし。
  • 岩崎さんの第一印象は?
  • 小山内やっぱりMeton Milkのイメージ。Metonは、好きな音楽がたくさん混ざってるバンドで、最初に聴いた時にすごく良いと思った。Stone Rosesも混ざってるしBeckも混ざってるし、なんかお洒落な雰囲気もある。だから、Meton Milkっていうすごく良いバンドのリーダーっていう印象。
  • 「Sun Crush」はどれくらい続いたんですか?
  • 小山内たぶん3回くらい。3回やったところでGrooveが潰れてしまった。で、イベントやる場所がなくなって困ってたら、たまたまLab Tribeっていうクラブでレギュラーやってみないかっていう話をもらって。そこで、「Second Up」っていうイベントを始めることになった。そのタイミングで、高橋さんにレギュラーDJとして一緒にやってくれませんか?って声をかけて。その時、高橋さんはもうZest(渋谷にあったレコード・ショップの京都店)で働いてたな。でも、今思うと「Second Up」もかなり行き当たりばったりのイベントだった。毎回ゲスト呼んだりしてたけど、コンセプトも特になかったし。とりあえず勢いでやりたいことを毎月やって。1年半くらい続いたんじゃないかな。
  • ゲストはどういう人を呼んでたんですか?
  • 小山内覚えてるのは、Yes, Mama Ok?とInstant Cytron。あと関西の周りのバンドとか。Meton Milkがもちろんそうだし、京都とか大阪でアノラックとかネオアコとかやってる人たちを誘って。そこで、上田修平君(Rufus)とも出会った。Boys & Girls Togetherっていう奈良のバンドに出てもらった時、上田君がベースを弾いてて。それがきっかけですごく仲良くなった。それから、当時Swing SetっていうユニットでBambiniからリリースしてた橋本竜樹君にも色々やってもらって。その時はもう矢田さんのレーベルBambiniがあって、僕はそこで働いてた。「Sun Crush」の頃から、Metroの「Pop Mania」の早い時間のDJを僕と岩崎さんでやってて、その流れでBambiniでバイトさせてもらうことになって。「Seond Up」には、そうやってBambini関係で知り合った人たちにも出てもらったりしてた。

「Bambiniというレーベルは、矢田和生の美学でできていた。」

  • Bambiniで働いてたのは、大学卒業してからですか?
  • 小山内いや、学校も跨いでたね。
  • Bambiniっていうのはどんなレーベルだったんですか?
  • 小山内本当に日本のElというか。矢田和生という男の美学でできてたようなレーベル。世界の空気感と同じタイミングでリリースする説得力のあるかっこ良さというか。Girlfriendo(スウェーデンのインディ・ポップ・バンド。中心メンバーは現在Love Is Allとして活動中)とか、ブレイクする前のLadytron(イギリスのニュー・ウェイヴ・シンセ・バンド。独特のレトロ・サウンドで海外では高い評価を得ている)をリリースしていた。海外の音楽と国内の音楽を全く同じ考えでやってたから妥協がなくて、全てが矢田さんの美学のもとに統一されてた。
  • その矢田さんの美学っていうのを、もう少し具体的にいうと?
  • 小山内なんだろう…こだわりっていうよりも美学って感じなんだよね。ストレートなお洒落感じゃない、なんかちょっと一癖あるお洒落、でもすごくお洒落っていう。あの時は時代の流れとかもあって、かなり軌道に乗ってたね。コンピレーション(『Mystery Date Game』『Voyage Romanesque』の2タイトルがある)とか、今聴いてもすごく良いし。
  • このインタビューを読む多くの人は知らないと思うんですけど、レーベルの規模とか認知度とかって当時はどれほどのものだったんですか?
  • 小山内GirlfriendoのCD(『Surprise! Surprise! It's Girlfrendo』)が初回5,000枚売れてたから、結構すごいよね。Escalatorとか、梶野彰一さんのL'Appareil-Photo(Saint Etienne、Bertrand Burgalatなどをリリース)とか、そうした渋谷系以降の空気感を持っているレーベルの一つとして、あるシーンではすごい認知されていた。で、京都に拠点を置いてたから、それだけで色が出てたし。その頃、雑誌の『Olive』(マガジン・ハウス)で「京都系」っていう特集が組まれて、それに大々的に掲載されたりとか。
  • ちなみに、その「京都系特集」には他に誰が載ってたんですか?
  • 小山内確かColletteも載ってたなあ。その頃、ColletteはドイツのBungalowっていうレーベルのコンピレーション"Sushi 4004"にFPMやCorneliusとかと一緒に収録されてたりして話題だった。他は、この前のSatoru Onoのアルバム(『Tales from Cross Valley』)のジャケットをデザインしてもらったデザイナーの宇賀田直人君とか、恵文社一乗寺店(京都の書店/雑貨屋)の店長の堀部篤志君なんかも載ってた。
  • 高橋さんも一時期Pat Detectiveでバイトされてたんですよね。Bambiniには関わってなかったんですか?
  • 小山内高橋さんはBambiniには関わってない。高橋さんは他にもバイトしながら、Patで働いてたな。「Second Up」のフライヤーは、Patの事務所に誰も居ない夜中にこっそり行って、高橋さんがさくさく作ってくれてた。今日夜行ける?とか言って、Zestの仕事終わってから行って。
  • 学生時代、TSUTAYAの西院店でもバイトされてたんですよね。
  • 小山内TSUTAYAはもっと早くて。大学2年からかな。飯田仁一郎君(Limited Express(Has Gone))とほぼ同期入社で3年間くらい。最後は、就活するって行ってフェイドアウトした。
  • 飯田さんと小山内さんは同い年ですよね?
  • 小山内うん。学校も同じ立命館。だから、単純に友達として仲が良かった。聴いてるものは全然違ったけど、あいつが店で推してるのは面白いなーと思ってたし。日本のアングラとかオルタナとか全然知らなかったから、飯田が聴いてるものに興味持って聴いたりして。2人で閉店作業してる時は、爆音で音楽かけて踊りながら仕事してた。
  • TSUTAYAで働いた経験で、今に活かされてることってありますか?
  • 小山内その時は全然意識してなかったけど、人の繋がりっていうか。インディとかクラブとかっていう自分のジャンルだけじゃなくて、それ以外の人たちと今も繋がっていられるのは、たぶんTSUTAYAで働いてたからだよね。最初、飯田のライヴ見た時は全然わかんなかったもん。何やってんのこいつ、って(笑)。でも、そこでできた人と人との繋がりがあるから、今も「ボロフェスタ」(京都の名物フェスイベント。飯田氏は主催メンバーの一人)で「Second Royal」やったりとかできる。色々な音楽を聴けたしね。Bambiniとか自分のイベントだけだと結構偏っちゃうんだろうけど、TSUTAYAのおかげでうまくバランスがとれたんじゃないかな、と。

ということで、前編はここまで。後編に続きます!