第一話 横浜
カレンダーでの夏がぼちぼちと終わりになった頃の話。確かあの時は長野県で一泊して、夕方ぐらいに帰路についたから、遅くても七時や八時には横浜に戻れているはずだった。ところが、タカラダミチノブという男の車の助手席で「子熊だったけど殺しました」「もう一匹見つかりました」などといったニュースの直後に「かけがいのない自然を守りましょう」と、暴力的なアナウンスがうっかり入る地元のラジオ番組の展開に意表を突かれていたら、大袈裟な台風が唐突にやってきて山間の高速道路は見えず進めずの愚図々々な状況。「山の神がお怒りです」「山の神は女性です」「そういう事なので男性器の形に削った神木を青年団の皆で担いで山頂まで突撃して下さい」……これでは、何時になったら帰宅出来るのか全くわからない。まあ、予定通りに戻れたところで面白い約束があったわけでもないから、日頃自動車での遠出には縁のない自分には珍しい分だけ得したような気分だったのだろう。夜中の三時を回った頃には軽く浮かれ続けての連想式無駄話しにもオチらしきものがついて、マンション前に到着していた。そのまま、どこかで約束があるらしい彼はあっさりと去って行ったのだが、雨は小降りになったものの風は依然として衰えを知らない。部屋に戻って猫達と戯れてみたものの、風に震える窓枠の騒がしさに影響されてなのかやっぱり遊びに行きたくなってきた。そういえば、近所の繁華街の脇を流れる川に沿ってブーメラン状に曲がった二階建の雑居ビルがある。いい加減な名前のスナックやバーの看板が腐りながらも派手に輝いているのでいつも気にはなっていたのだが、散歩で通りがかるだけで中の店には未だに入っていない。ケイヒンという男の名が浮かんだ。ああいったわけのわからん場所へ遊びに行くのだったら奴は必ず来るに違いないと、確信があったから無遠慮に電話をしてみた。案の定「嵐なんだから悪い事が起こるに違いない、飲みに行こう」と、気持ちよく話がまとまって元町のタワレコ前で待ち合わせを約束。先に到着し、突っ立ってる僕の前をぼろぼろの新聞紙や大きな看板が転がっていく。しばらく待ったところで、銀色のバイクに跨がった彼がハンドルにぶら下げた寿司袋を嵐で大回転させながらやってきた。
一件だけ看板を下げてない店がある。ちょっと店名を書く事は出来ないのだが、場所に似合わず、多少若者向けのお洒落な店名と看板の造形。悪い事が起こる気配はなさそうだ。だからといって今さら他の店を捜しに行くのも難儀な時間なのでとりあえず、飲めればいいという気持ちで扉を開けてみた。八人も座れば満員になるだろうカウンターのみの狭い店。ブラックライトに照らされた背中の壁には、ジオン軍旗と、パーティー用の安っぽい着ぐるみが壁に吊るされており、バーテンさんは末端のホストとも近しい顔・髪型・服装で水商売らしきお客さんと色恋話で盛り上がっている……少し間違えた。だからといって、この嵐の中、引き帰す気力があるわけでもないので、奥の席に腰をかけてみた。
バーテンさんがビールを注いでいる。その間に、薄汚い服装の一見客の二人組が、場にも馴染まぬうちからカウンターに寿司袋をひろげ、鮪だの蛸だのと喰いはじめたのがいけなかったのかも知れない。常連らしき先客の二人組はさっさと勘定を払い出ていった。そこで、間の抜けた我々も、ようやく持ち込みを勝手に食べはじめてしまったのも失礼なのものだと思いはじめ、とりあえずバーテンさんに「寿司を是非」「寿司をどうぞ」と調子のいい感じで薦めてみた。彼はそれならば入り口近くで話し込んでいる二人組の女性客にも分けてあげてはくれないか、とやさしい事を言う。それもそうだ、と同じ調子ですすめてみたところ、「リヴァースしてしまうので遠慮しておくわ……」となんだか溜息まじりで変な遠慮をする。いや、気になるのは言葉の内容ではなくて、奥歯でゴム球を噛みながらひたすら唾液を飲み込み続けているような低い声と拙いリズムだったのかもしれない。その口調から、面倒な人間の持つ独特の気配を察する事は容易だったのだが、まあ、なんだか、酒場の流れというものもあるものだから、「リヴァースとはいったい何かね?」と適当に返してみたところ、何故だか連れと目をあわせた後にこちらに振り返り、力強い口調で自分のオッパイがいかにHカップに成長していったのかを、小学生時代に迄遡り語りはじめた。時には興奮気味にカウンターに胸を乗せ、時には下から胸を持ち上げてみせる。その様はまるで「襲い掛かる米兵たちを千切っては投げ、千切っては投げ……」と南方での激闘を酔った勢いの大声で語る祖父の様。そのままの流れで、堀之内のソープで働いていて、今日も七万五千円稼いだ等々、といろいろ教えてくれるのだが、こちらとしては、何故、寿司を喰うとリヴァースなのか、何故、魚が駄目でゲロを吐いてしまうのかを聞いてみただけである。確かに凄い軍事力だという事は理解出来るのだが、なんだか面倒な気持ちになってきてしまったので、悪い事に起きられてしまうより、サウナで一服したくなってきた。ヒントはあったはずなのだが、結果的に、暴風、寿司、ゲロ、堀之内の巨乳ソープ嬢といったパズルの欠片が最後迄一つの巨大な絵画をつくる事はなかったのである。残念だけれども、無理をしちゃあいけない。本当は酒なんてものを飲んでも面白い事などなにもない。五千円分飲めば五千円分、一万円分飲めば一万円分がただの黄色い小便になってトイレから下水管へ、下水管から海へと流れ出ていくだけなのだ。だいたいが、面倒臭がりで物忘れの多い阿呆になっていくだけなのだ。

