第二話
T君という友人との何かの話し合いが終わったら、昼から何も食べていないせいか、なんだか急にお腹が空いてきた。気がつけば時間も時間なものだから、安くて調子のよさそうな居酒屋でもないものだろうかと、近場の呑み屋通りを探索したら、正面の飾り棚に漁船の小型模型が沢山飾られた、年期の入った小さな炉端焼屋があった。あんまりうろつくのも面倒なものだし、おまけになんだか渋い気持ちになれそうな雰囲気を感じたものだから、T君と一緒に入ってみる事にした。小さな店内には、入り口脇に座敷きが一つ、三、四人で囲める炉端が奥に二つあり、椅子には丸太が使用されている。厨房の棚に飾られている酒瓶が、日本酒と焼酎合わせて二種類しかないのはちょっとばかり寂しいのだけれども、選ぶ手間が省けてちょうどいいくらいだと考える事にしてみた。
常連らしきオッサンとの会話を中断した店主がでっかい感じの笑顔で、「待ってましたよ。どうぞどうぞ」とか言って、調子良く奥の席につかせてくれた。この店主は真冬だというのにTシャツ一枚だ。けれども、なんだかそわそわしているようにも感じたから、きっとまだ、常連らしきオッサンと店主の会話が綺麗に切れてないのかもしれない。そういった事は大事だ。とりあえず、腹は減っているのだけれども、食い物を聞いてもらうのは後にして、しばらく焼酎だけ頼んで品書きを覗きながら一息ついた。三十分そこらたったくらいで、なんだか話にもオチがついたらしく、常連のオッサンはのっそりと揺れながら帰っていった。店主は厨房に入ってから、「すみませんねぇ、兄さん。ほら、なんでも美味しいから……ねっ!」と。とにかくやっと注文を聞いてくれたと思って小さく安堵したところで、頼んでもないのに両手に種類の違う魚を一匹ずつつまんで、なんだかこっちの方へやってくる。狭い店だから厨房から僕らの座る奥の席までだいたい二秒か三秒だ。そのまま向いの椅子に座って、僕の目を真剣に見据えながら、魚をペロリペロリと網の上に並べ始めた。これは、「みんなで一緒に食べると数倍美味い」といった良い感じのコミュニケーションなのかも知れないし、もしかしたら自分が食べたいだけなのかも知れない。いきなりの動きなので意図が見え辛いのだけれども、まあ、ここは奢りだと考えるのが妥当なところだから、なんだかついている。嬉しい。優しい。少し気持ちが油断し始める。
油断の証に何時の間にか、店主の顔の位置がさっきとかなり変わっている。四股を踏むような大きながに股で、椅子から少し腰を浮かせたまま、直立時の膝上くらいの位置にある、炉端の網すれすれの火傷しそうな位置に顔を近付けている。なにをそんな不自然な格好でスリルが満点な事をやっているのかと思いきや、炭にではなくて網の下から魚に向かって、口先を尖らせて強く息を放出し続けている。大量の唾も同時に放出され続けている。あぶられる魚とあぶる網から、瞬間で蒸発する唾の音がプチリプチリと指先で蟻でも潰すかのように聞こえてくる。しばらくその行為をくり返してから、店主は椅子に腰を落とし、額に汗を浮かべ笑いながら言った。「こうして焼いたほうが、おいしいからね。ホラ!」。こう言われた場合の気持ちは、漫画的な表現だとたぶんアレがいい。何日間分かの髪毛や陰毛が風呂場の排水溝あたりで絡まりあって出来るあの妙な物体が、頭の十センチ程上に浮いているアレだ。アレがいい。けれども、アレが出来ないからしょうがない。「食べさせる権利」ってやつも、実家のかーちゃんにしかないものだと思い込んでるのが馬鹿なだけで、こういったケースも現にあるのだから、義務もあるのだろう。いや、たいがいの場合は素直に嬉しいのだけれども……。とりあえず、二人で生気なくニヤニヤしながらよく焼いて食べたのだけれど、以外とおいしかった。「おいしかったです。ごちそうさま」と大きな声でお礼を言うと、「あたりまえだ。この店は三十年以上やってるからなっ!」と、少し尊大な様子で声色も変わってきている。何でだかはわからないけど、さっきのはとりあえずは奢りのようなので、そのくらいは御愛嬌だろうと感情の辻褄を合わせていると、こんどは座敷の座布団の下から何かを取り出して持ってきた。「ほう?これは何ですか?」と質問してみたところ、古びた大型漁船の拡大写真を数枚見せながら、漁師時代を語ってくれた。なにやら、生まれと育ちは長崎の漁村で、若い頃から遠洋漁業でマグロなどをたくさん捕まえて大金を稼ぎ出していたらしい。そんなところから、ゆっくりと話しに熱がおびてくる。ブルースが加速してゆく。実は、自分は昔歌手をやっており、ドーナツ盤でシングルも七枚リリースしている。代表曲は『キスグレ仁義』という名の曲で、一世を風靡したという。おまけに焼酎なら若い頃から毎日六本は開けているとかいいながら、子供がカルピスをガブ飲みするかのように十分程であっさり一本空けてしまった。で、そのまま、話は漁師時代に遡るのだけれども、何故か東北地方の悪口ばかりになる。何故かと聞いても具体的には答えてはくれないのだけれども、ちょっと面白い事を言っていた。「オマエ等、若いからまだわからないとは思うけど、この話しはよく聞いておけ。最近はアメリカが戦争だなんだとか北朝鮮がなんだとか騒いでるやつらがたくさんいるけれど、九州と四国が連合を組んだらな、東北地方の奴等と戦争になってもな、絶対勝てるから。絶対大丈夫だから。俺がついてるから」。不覚にもココの場面でようやく、僕はこの店主はアル中なんだと気がついた。で、そのまま三時間以上いろいろなお話しを聞かせてもらった。勉強になった。そして、後半の大食い自慢に上手く相槌が打てなかったため、首を絞められて苦しかった。唾ではじまり餃子で絞められる。尊厳というものがあるなら、また踏みにじられる。

