第五話 「いったいなんだったのかが非常に曖昧で……。」
実の弟である英男にいろいろと気を使ってご機嫌を伺ってみたり、楽しかった昔を思い返す事によって、憎しみにとらわれた頑なな心を粘り強く騙くらかす努力、すなわち、俺一人が不自然な工夫を凝らす事によって四方を真ん丸く収め、なんとか沈滞した空気が柔らかくて風通しのよいものになればいいなぁ、などと考えてあれこれと踏ん張ってきたのだけれども、驚くほど楽しくない。
本当はあの時、英男を草深い山奥に捨ててくれば良かったのかもしれないし、さらに巻き戻せば一緒に温泉になんて来なければ良かったのかもしれない。あ?あ、嫌だ嫌だ。こりゃあもう、なんともならない。このような暗鬱な心が、綺麗すっぽりと安らぎの為に用意されたこの和室を蝕んでしまったため、とうとう、ここは悪しき屈辱空間に成り下がってしまった。無条件降伏的に数々の屈辱に耐え続けた負け犬意識の蓄積の結果報告として、「降伏と幸福は平仮名で書いても片仮名で書いても一緒なんだよね。漢字だけでしょ、意味が違うのって。2対1で漢字の負けだよねっ」と、ニコッとした調子で言いたい。
そう、今日俺は分厚い……変な文様が施された縄文式土器のようなものだ。ニョロっとした虫に内部から穴を開けられてしまった団栗を保存しておくための、ミミズも食わぬような腐った泥を弱火でサッと焼き上げただけの……鼻をブブーっとかんだちり紙をくしゃくしゃに丸めて、女投げで軽くぶつけただけで粉々に砕け散ってしまう脆弱な縄文式土器なのだ……よしっ、この調子でいってみよう。そう、今日俺は分厚く……無痛覚すれすれ迄分厚く重なって盛りあがってしまった俺の心の瘡蓋でさえ、入れたてのコーヒーにつまんで落とされ無抵抗なまま、ボロリボロリと回転しながら溶けていく角砂糖のごとく、哀れで脆いものになってしまっているのだ。
カレーとエロ本にしか興味がないような、英男に受けた屈辱に対しての私の見解。まだまだ解きほぐし足りない過去?現実?未来、歴史の小窓から覗いた心の秘密。まだまだ考えたりない事が山ほど残っているのだが、話がいつまでたっても前に進まないので、これを英男に送る兄からの最後の言葉にしておく。「お前は頭が悪いから、悪い人には気をつけて」、だ。タイミングを見計らって言ってやろう。
とかなんとかと長々腐っていると、突然部屋の裏にあたるあたりでなにかの木が倒れ、そのために慌てた小心な牛がモンウウ?ンと調子の悪いふうに鳴いている気がした。英男は勝手に温泉に浸っていて部屋にはいない。しょうがないからひとりで浴衣のまんま、なんだなんだと大慌てでロビーで傘を借り、表の小道から駐車場を回り込み、そこから部屋の裏に行ってみた。部屋からこぼれる灯りを頼りにあたりの様子を伺った。
するとどうだろう。神経痛・リウマチ・胃腸病などに効果があるとされる単純温泉に、肩迄ぺろりと浸って皺の少ない脳の芯迄ぼろぼろに油断させているはずの英男が、何故だかそこで膝を丸めて佇んでいる。すぐ脇には体の半面に泥がこびりついた牛が、病み上がりのような体勢で途切れ途切れに鳴いている。どうしようもなく庭が台なしになってしまっているものだから、「おやおや、やっと色のそろいはじめた紫陽花を無茶苦茶にして、どういったつもりなのだい?」と、遊びなれた旦那的貫禄を装い静かな面持ちでたずねてみた。そこから始めるしかしょうがない面倒臭い状況が完成している。(続く)

