第1講
「Rise and fall of Michael Jackson dynasty in 1980's.」
~1980年代、マイケル・ジャクソン王朝の誕生と崩壊~
■自己紹介のようなもの
「JET SET web」を訪れたみなさんこんちゃーす!「ノーナ・リーヴス」のヴォーカリスト西寺郷太です。よろしくお願いします。
ぼくは1973年生まれ、京都育ちです。ともかくこどもの頃から歌謡曲が大好きで、毎週「ザ・ベストテン」を楽しみにしていました。特にジャニーズのアイドル達に筒美京平さんが書かれた華やかでせつない作品群にしびれ、必死で覚えてはいつもクラスメイトを集めて歌っていました。
いわゆる「洋楽」に本格的にハマったのは9歳の頃です。'82年に発売されたマイケル・ジャクソンのアルバム『スリラー』が歴史的な大ヒットを記録、空前のマイケル・ブームが世界中に伝播していたちょうどその時。日本のテレビでも頻繁にプロモーション・ヴィデオが流されていたのですが、同じマンションに住んでいた3歳年上の鈴木元昭くん(通称「もっちゃん」)がマイケルの「ビリー・ジーン」を録画したヴィデオをぼくの家まで見せにきてくれたのです。
その瞬間の感動は今も鮮明に覚えています。それまで知っていた日本の音楽とまったくレヴェルの違う鋭いビート感。そして何よりもマイケルの凄まじいヴォーカルとダンスにショックを受け、そこからぼくはマイケル・ジャクソンに夢中になりました。そして彼と共演していたポール・マッカートニーからビートルズを、彼の過去ジャクソン・ファイヴを追いかけてソウル・レーべル「モータウン」を知ります。
中学生になる前にスティーヴィー・ワンダー、マーヴィン・ゲイ、シュープリームス、テンプテーションズなどの大ファンになりました。同時にマイケルの生涯のライヴァルであるプリンス、マイケルに影響を受けた若い世代のニュー・エディション、デバージ、そしてブラック・ミュージックに影響を受けたイギリス生まれの白人達、ワム!、カルチャー・クラブ、デュラン・デュラン、スタイル・カウンシル、スクリッティ・ポリッティなども大好きになりました。
「ノーナ・リーヴス」でぼくがソングライターとして目指している世界観の「軸」は、小学生の頃信じたそういった名曲達の中にあります。
「80年代」の<派手で軽薄な>文化や音楽は、後に訪れた<リアリティを大切にする>「90年代」にはおおむね否定の対象となりました。これはどの時代にもある歴史の反動でしょうがないことです。しかし、今こそもう一度「80年代」を見つめることによって見えてくることが沢山あるとぼくは信じています。そして、「80年代」の象徴であるマイケル・ジャクソンに注目しまくれば、時代のすべても語れるのです。
というわけで、講師・西寺郷太による「ミュ~塾!」スタートです。どうぞ、よろしく。
■第一章「クイーン&キング・オブ・ポップ」
(1) クイーン&キング・オブ・ポップ
さて、みなさんはマイケル・ジャクソンが最も影響を受けたアーティストは誰だと思いますか?
アメリカでもヨーロッパでも、もちろん日本でも、マイケルの存在自体を知らない人はほとんどいないはずです。彼は世界中で最も知られていて、人種の壁を越えてレコードを売ったアーティストのひとりです。
ある程度黒人音楽に興味のある人は、マイケルがミュージカルの王様フレッド・アステアや、後に版権を所有することになるビートルズ、少年期にステージでの激しいパフォーマンスを直接教わったジェイムス・ブラウンを尊敬し影響を受けていることを知っていると思います。
他にもマイケルと同じようにモータウンから幼くしてデビューした天才スティーヴィー・ワンダー、母親であり、姉であり、理想の恋人でもあったダイアナ・ロス、プロデューサーである巨匠クインシー・ジョーンズ、マイケルがことあるごとにファンであることを公言しているビー・ジーズなどの名前もあがってくることでしょう。それらはすべて正解です。
しかしです。ぼくは何年も考えぬいたある時、本当の答えは別のところにあると気づきました。マイケル・ジャクソンが最も心酔し、影響を受け、模倣したアーティストは誰なのか?
その答えは「クイーン(特にフレディ・マーキュリーとジョン・ディーコン)」だったのです。
意外かもしれません。日本でのクイーンのイメージは「とてつもなくクオリティの高い曲を作る雑食のロックバンド」であり、フロントマンであるフレディのイメージは「エイズで亡くなった孤高の天才シンガー」、ベーシストのジョンはと言えば「クイーンで一番目立たない人」といったところだと思います・ 笑。
しかし、実はクイーンというバンド、そして「キング・オブ・ポップ」などと後に「(愚かにも)自分で名乗ってしまう」ことになるマイケル・ジャクソンとの関係は深くて複雑なんです。そして、まさにこのクイーンとキングの出逢いにこそ、80年代の<「ロック」と「ソウル」の不思議な関係>が凝縮されているのです。
まずストーリーをはじめる前に、時代をさかのぼってそれぞれの経歴をみてみましょう。
フレディ・マーキュリーは1946年9月生まれ。クイーンのファースト・アルバムのリリースは'73年7月ですから、まもなく27歳になる頃にデビューと遅咲きです。
ちなみに彼と同学年で、後にヒット・シングル「アンダー・プレッシャー」で共演することにもなるデヴィッド・ボウイはクイーンがデビューする前年の'72年には歴史的な傑作アルバム『ジギー・スターダスト』でブリティッシュ・ロックの頂点を極めていました。一世代上のロック・レジェンド達、ドアーズのジム・モリスン、フレディのヒーローでもあるジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリンも20代前半でデビューしロックやソウルの最前線を衝撃的に駆け抜けて27歳で死去しています。
もっと言えばです。ビートルズの最年少メンバーであるジョージ・ハリスンは'43生まれ、フレディと3歳しか年が変わりません。ビートルズが解散した'70年時点でジョージは27歳(若い!!)。そして'69年にデビューしビートルズの次に天下統一したといってよいレッド・ツェッペリンのヴォーカリスト、ロバート・プラントに至ってはフレディよりも2歳年下です。'73年の時点では大御所としてすでにキャリアの絶頂を迎え、あの『聖なる館』をリリースしているのです。そう考えると、27歳でようやく「デビュー」することが出来たフレディがいかに遅咲きだったのかわかると思います。
ただし、クイーンのベーシストで最年少のジョン・ディーコンは'51年生まれ、デビュー当時は21歳。彼は一世代上の英国のミュージシャンの多くが「ディープでヘヴィなブルース好き」だったのと違い、「ポップな黒人音楽の大ファン」でした。このフレディとジョンの5歳の年齢差から生まれるギャップは、後に開花することになるクイーンの「音楽性の面白さ」、そして'83年に<幻のコラボレーション>をすることで表面化するクイーンとマイケルとの関係の複雑さに繋がっていきます。
対するマイケル・ジャクソンは1958年8月生まれ。1969年秋に、ジャクソン・ファイヴ(以下、J5)のリード・ヴォーカリストとしてソウルの名門モータウン・レコードからわずか11歳でデビュー。それだけでなく、そこから4曲連続で全米ナンバー・ワン・ヒットを出すなど前代未聞の成功を収めます。クイーンがデビューした'73年までにはソロ・デビューも経験し、ティーンエイジャーながら圧倒的なキャリアを築き上げていました。
しかし、数年後の70年代中盤にはマイケルも成長し変声期を迎え、大衆に飽きられはじめてしまいます。当初の熱狂的なJ5ブームは過ぎ去り、60年代にアーティストを完全にコントロールし、怒濤の勢いでヒットソングを量産していたモータウン・レーベルそのものも優秀なスタッフの離散などにより勢いを失っていました。
その頃になると兄弟全員が「新しい何か」がないとモチベーションを保てなくなっていました。「新しい何か」というのはたったひとつ、職業作家が作り、プロデュースされて歌う歌ではなく、「自分たちで自分自身の音楽をクリエイトする」ことです。
'75年、J5は「自分たちが作詞作曲やプロデュースの権利を獲得する」という条件でエピック・レコードに移籍をします。兄弟の残留を主張するモータウンとは法廷闘争になり、円満な移籍とはなりませんでした。栄光のグループ名「ジャクソン・ファイヴ」はモータウンに取り上げられてしまい、「ジャクソンズ」という名前に改名を余儀なくされ、彼らは新天地で再スタートをきります。
(2) 出逢い
70年代も終わる頃には、クイーンもヨーロッパ、日本を中心にヒット曲を連発し「ナンバーワン・ロック・バンド」の地位を揺るぎないものにしていました。「ウィ・ウィル・ロック・ユー」、「ウィー・アー・ザ・チャンピオン」、「ボヘミアン・ラプソディ」、「キラー・クイーン」など書ききれないほどのロック・クラシック達を生み出し、スタジアム・クラスのツアーも成功させ、まさに順風満帆の歴史を刻んでいたのです。
しかし、どんなことでも問題は生まれてきます。クイーンも大成功した後、同じことを繰り返すマンネリズムや、メンバー間での音楽性の違いが対立を生みました。特に純粋なハード・ロック指向のギタリスト、ブライアン・メイと、もともとモータウンのソウルなど黒人音楽、ダンス、ディスコ・ミュージックが大好きだったベーシスト、ジョン・ディーコンの作ってくる曲は「これで本当に同じバンドなのか?」と疑問に思うくらい真逆のベクトルを持っていました。フレディは我が道をゆく天才だと思われがちですが、ブライアンの話によると、メンバーの気持ちを誰よりもケアし、どうすれば全員がやりたい曲を「クイーンらしく」昇華できるかということをいつも考え、それぞれの曲が良い方向に進むようなアイディアを出していたのはヴォーカリストのフレディだったそうです。
'80年に発売されたクイーンのアルバム『ザ・ゲーム』はファンの間で賛否両論を巻き起こしました。ジョン・ディーコンの書いた「アナザー・ワン・バイツ・ザ・ダスト(地獄に道連れ)」は、それまでのメロディアスで豪華なハード・ロック・グループ、クイーンの姿をまったく無視したような「バンドによるシンプルなダンス・ミュージック」だったのです。その上、この曲は前年に発売され大ヒットしたシックの「グッド・タイムス」のベース・ラインをそのまま引用している、(サンプリングなどの手法が一般的でない当時の人の感覚で言うならば)ほとんど「パクり」のような作品だったのです。
クイーンのメンバー間でも相当この曲に関してもめたそうです。ロック・バンドとしての美学を大切にするドラムのロジャー・テイラーは、あまりにも今までのクイーンのパブリック・イメージと違うこの曲をギリギリまでボツにするべきだと主張していたそうですが、なんとここに登場するのがマイケル・ジャクソン。当時クイーンの熱狂的な大ファンでツアーにも何度も足を運んでいたマイケルが「アナザー・ワン・バイツ・ザ・ダスト」を聴きメンバーに直接、大絶賛。アメリカでのシングル発売を強硬にアドヴァイスしたのです。
'80年と言えば、マイケルもクインシー・ジョーンズと組んだ本来の意味ではじめてのソロ・アルバム『オフ・ザ・ウォール』を大ヒットさせていた時期です。あーだこうだともめていたクイーンのメンバーも「マイケルがそこまで言うなら」と「アナザー・ワン・バイツ・ザ・ダスト」をシングルとして発売。すると、クイーンに興味のなかったアメリカの若い黒人層にバカ受けし、あれよあれよという間に全米ナンバー・ワンに。結果的にクイーンのキャリア屈指のヒット曲になるのです。
そんな風に音楽的にもプライヴェートでも、仲良くなったマイケル・ジャクソンとクイーンの物語は次回に…。
(続く)


