第2講
「Rise and fall of Michael Jackson dynasty in 1980's.」
〜1980年代、マイケル・ジャクソン王朝の誕生と崩壊〜
(3) ギネス・ワールド・レコーズ
前回の「ミュ〜塾!」では、「マイケル・ジャクソンに最大の影響を与えたアーティストはクイーンだ」と書きました。そんなことを断言している人間はぼくが知る限り世界中に誰もいません。しかし、これはぼくが「なぜマイケルの『スリラー』は世界で一番売れたのだろうか?」と25年間研究し続けた答えなのです。
クイーンとマイケルの関係に迫る前に、マイケルが'82年11月30日に発表したアルバム『スリラー』について説明しましょう。2006年11月15日時点のギネス・ワールド・レコーズによると、世界で最も売れたアルバム『スリラー』の持つ記録はなんと1億400万枚。4200万枚で2位のAC/DC『バック・イン・ブラック』、4100万枚で3位のイーグルス『グレイテスト・ヒッツ1971-1975』、4000万枚で4位の『サタデー・ナイト・フィーヴァー』(サウンド・トラック)達にダブルスコア以上の差をつけたぶっちぎりのナンバー・ワンです。
ちなみに「全世界最多セールス」の『スリラー』ですが、アメリカ本国のみでは2700万枚で2位(全米レコード協会)。現在の1位は、アメリカの国民的バンド、イーグルスの『グレイテスト・ヒッツ1971-1975』。彼らのベスト・アルバムはバンドの解散後も着実に売れ続け、数年前に2900万枚を突破、マイケルの持つ記録を更新したのです。
しかし、これはとても興味深いデータです。この数字に注目すれば、全世界で4100万枚と言われるイーグルスのベスト・アルバムがその売り上げの約4分の3をアメリカ国内で記録しているのに比べ、『スリラー』はむしろアメリカ国内だけにとどまらず「ありとあらゆる国で大ヒットした」という事実が浮かび上がってくるのです。
(4) なぜマイケルの『スリラー』は世界で一番売れたのだろうか?
では、なぜ「マイケルの『スリラー』は全世界で一番売れた」のでしょうか?
この答えはいくつか挙げられます。まず第一にマイケルが才能あふれる魅力的なアーティストだったこと。そして『スリラー』そのものが、素人から評論家までをも唸らせた恐るべき完成度のアルバム(最高の曲、最高の詞、最高のヴォーカル、最高の演奏、最高のサウンド、最高のプロデュース)だったこと。
しかし、「魅力的なアーティストによる恐るべき完成度のアルバム」は他にも沢山挙げられます。なぜ『スリラー』は、これほど「売れなくてはいけなかった」のでしょう?'82年のクリスマス・シーズンからの数年間、『スリラー』が国境を越えた社会現象を巻き起こした最大の理由・・・。
それは「ヴィデオ」の存在でした。
「当時最も勢いのあるメディアだったMTVを中心に、マイケルが歌い踊るプロモーション・ヴィデオが世界中で何度も何度もオンエアされた」こと。「それまでにマイケルのヴィデオほど完成度が高い作品を誰も観たことがなかった」こと。そして、「ちょうどその頃、各メーカーが競って低価格のヴィデオデッキを発売し、ヴィデオが家庭に普及した」こと。それこそが『スリラー』が未曾有のヒット作となったポイントだったのです。
素晴らしい音楽は、人種、性別、国境、年齢、言葉の壁を越えます。そして、そこに「エキサイティングな映像」が加わると、さらに相乗効果を呼ぶことがこの時「発見」されたのです。それまでのヴィデオは一般的な宣伝ツールとしてしか考えられておらず、低予算で制作され、なんとなくアーティストが一生懸命に歌い演奏する姿を収録しただけものが主流でした。
しかし、少年時代から映画やアニメやミュージカルの熱狂的なマニアで、映像制作に人並外れた興味と情熱を持っていたマイケルは、大衆にプロモーション・ヴィデオをはじめて「独立した作品」として認識させたのです。この時、マイケル自身が天才的なダンサーであったことも重要な要素でした。
もちろん優れたシンガーが、驚異的なダンサーであり、ステージ・パフォーマーでもあるという例は、マイケルの尊敬するジェイムス・ブラウンの名を筆頭に沢山浮かびます。しかし、単なる「宣伝のためのヴィデオ」を「音楽映画」として進化させ、何度も繰り返して観たくなるようなクオリティの「商品」として完成させたのはマイケルでした。
今では当たり前となっている「ヴィデオ・クリップ集を発売する」という発想も、彼がアルバムのタイトル曲「スリラー」のメイキング・ヴィデオを制作する際に思いついたものなのです。
しかし、この「映像によりマイケルの魅力を伝える」というアイディアには大きな壁が立ちはだかっていました。それは、アメリカ合衆国に根深く潜む「人種差別の壁」です。今では信じることが出来ませんが、なんと当時MTVは黒人アーティストのヴィデオ放送を拒否していたのです。'81年夏に開局し大きな話題になっていたMTVでしたが、マイケルが『スリラー』からのセカンド・シングル「ビリー・ジーン」のヴィデオを発表する'83年3月までは、驚くべきことに黒人アーティストのヴィデオを全くといっていいほどオンエアしていなかったのです。
これには理由がありました。有料のケーブルテレビであったMTVの大多数の顧客はティーンネイジャーの子供を持つ比較的富裕な白人家庭。お金を払っているのは彼ら少年少女の親や祖父母達です。MTVのクライアントである差別意識のある古い世代の白人層は、自分の子供達が黒人アーティストに夢中になることを嫌悪し、怖れていたのです。
歴史を変えたのは、マイケルでした。「ビリー・ジーン」のオンエア拒否に激怒したマイケルの所属レコード会社CBSが「こんなに素晴らしいヴィデオをオンエアしないのなら、MTVの意味がない。我が社のヴィデオすべてをMTVから引き上げる」と恫喝。その結果、ようやく「ビリー・ジーン」のヴィデオの放映が決定。続く「今夜はビート・イット」とともに一躍「マイケル現象」を巻き起こし、結果的にMTVそのものの人気もアップさせることに繋がりました。その結果、他の黒人アーティストのヴィデオも後を追うように解禁になったのです。'80年代初頭とは、「黒人(有色人種)というだけで、ヴィデオも流してもらえない」まだまだそういう状況だったのです。
もともとハンサムだったマイケルが、度重なる整形手術によって黒人的でも白人的でもない独特のルックスへと変貌していったことには、現在に至るまである種の批判や嘲笑が絶えません。しかし、こういった当時の時代背景、黒人アーティストが人種の壁を越えることがどれほど大変だったかを考えれば、そこに深い「意味」があったことを指摘したいです。
個人的にはあの'79年から'84年にかけて小刻みに繰り返された整形手術がなければ、マイケルの世界中の人気・認知度は、後にスーパー・アイドルとして一世を風靡したボビー・ブラウン、もしくは彼の生涯のライヴァルであるプリンス程度にとどまっていたと思います。もちろん音楽家としてワイドショー・レヴェルの一般大衆の認知度より大切なものがあることは、マイケルと同い年で現在も最前線を走り続けているプリンスが教えてくれますが・・・。
(5) 『スリラー』前夜
さて、マイケルが歴史的傑作『スリラー』のレコーディングをはじめた'82年春の段階で、23歳の彼はどんなことを考えていたのでしょうか?
彼の頭の中にあった理想は、「今までなかった次元で、ロックとソウルをブレンドする」こと。もっと単純に言えば、マイケルは「フレディ・マーキュリーになりたかった」のです。実は『スリラー』を制作するまでの数年間、マイケルが最も夢中になっていたのがロック・ミュージック。特にクイーンだったのです。マイケルは少年時代から模倣の天才です。ダンサーとしてもフレッド・アステアのしなやかで優雅なダンス、ジェイムス・ブラウンの激しいアクションなど正反対のものを完全に模倣し、その上で組み合わせることで彼個人のオリジナリティを作り出してきました。
この時期フレディに心酔した彼は、ライヴにも足を運び個人的な親交も深めました。ブラックのみでもホワイトのみでもない自分なりのソング・ライティングを模索していたマイケルにとって、タンザニア生まれのゾロアスター教の末裔であり、インドで少年時代を過ごし、イギリスへ移り住んだフレディの「非西洋的なバックボーン」は強烈なシンパシーを感じさせるものでした。フレディが得意とする「オリエンタルなメロディラインと摩訶不思議でありながらも自分の心の奥を聴き手に伝えてゆく言葉選び」はその後のマイケルの作風に大きな影響を与えます。そしてこの頃身につけた作曲術は、マイケルの音楽が(クイーンと同様に)非西洋圏の国の人々にも深く愛される大きな原動力となりました。
フレディからの影響は音楽作りだけにとどまりません。ステージ・パフォーマーとして、ヴィジュアル的な影響も強く受けました。轟音を響かせるハードロック・バンドのフロントマンとして、凄腕のギタリスト、ベーシスト、ドラマーを従えスタジアムに君臨する姿。荘厳で美しいバラードを歌ったかと思えば、一転して激しいシャウトで観客を煽動できる圧倒的なシンガーとしてのフレディに嫉妬すれすれの感情を抱くほどでした。後にマイケルは『スリラー』でのエディ・ヴァン・ヘイレン、『BAD』でのスティーヴ・スティーヴンス、『デンジャラス』でのガンズ・アンド・ローゼスのスラッシュ、そしてソロ・ツアーでの女性ギタリスト、ジェニファー・バッテンなど、ステージに「目立つ」ロック・ギタリストをはべらせ、自分自身はギターを弾く真似をしながらハイトーンで絶叫する・笑、というシチュエーションを何度も作り出します。これはクイーンのフレディとブライアン・メイの関係を彼なりに再構築したものなのです。
さて、クイーン・サイドから見ればマイケルはどういった存在だったのでしょうか?ここが重要なのですが、マイケルとフレディ(クイーン)の関係は一方通行的なものではなく、同じ様にフレディ、そしてベーシストのジョン・ディーコンにとって、ダンサブルでエレガント、そしてエモーショナルなマイケルの音楽は当時最も新鮮で興味深いものだったのです。それどころか、子供の頃からモータウンをはじめとするソウル・ミュージックの大ファンのジョンにとって、マイケルは年下でありながらも「青春時代からの憧れ」といってもいい存在でした。
フレディは当時のロック雑誌のインタビューなどで、マイケルのアルバム『オフ・ザ・ウォール』を必ずフェイヴァリットに挙げています。'80年のクイーンのシングル「アナザー・ワン・バイツ・ザ・ダスト(地獄に道連れ)」はジョン・ディーコンがマイケルにインスパイアされて書いた曲ですが、この曲でのフレディはマイケルの歌唱法をほとんどパロディと呼べるほど模倣していて微笑ましいほど。一説にはこの曲は「ジョンがマイケルに頼まれて(または自主的に)マイケルの為に書いた曲をクイーンでレコーディングすることにした」と言われているのですが、ぼく自身はその説を密かに信じています。それくらい「アナザー・ワン・バイツ・ザ・ダスト」はクイーンにとって異色な作品だったのです。
結果的にマイケルの勧めもあり、この曲はクイーンの代表的なシングルとなったのですが、このように追いかけてみると「マイケル・ジャクソンに最大の影響を与えたアーティストはクイーンだ」と書いておきながら、実は時間軸として先にマイケルのスタイルを大胆に導入したのはクイーンの方なのだということがわかってもらえると思います。
次回の「ミュ〜塾!」では、相思相愛のマイケルとクイーンによって必然的に生まれ、後に両者の関係の断絶へと至ることになった<幻のコラボレーション>について迫ります。
(続く)


