「Rise and fall of Michael Jackson dynasty in 1980's.」
~1980年代、マイケル・ジャクソン王朝の誕生と崩壊~

(6) 『オフ・ザ・ウォール』

'79年夏に発表された実質的なソロ・デビュー・アルバム『オフ・ザ・ウォール』によって、マイケルはキャリア10年目ではじめて「自分自身を象徴する作品」を完成させることができました。

『オフ・ザ・ウォール』をリリースするまで、マイケルの世間的な評価は、あくまでもチャイルド・スター上がりのシンガー&パフォーマーとしてのものにとどまっていました。ソング・ライティング、音楽制作の面ではいつも子供扱いされ、レコード会社のみならず、家族にも過小評価されていたのです。
今となっては信じられませんが、もともとマイケルが『オフ・ザ・ウォール』を作る際、マネージャーである父親ジョーや兄弟達は「ジャクソンズがアルバムのプロデュースするのはどうか?」と提案したそうです。しかしもちろんそれでは本末転倒。ソロの意味がないとマイケルは断り、ダイアナ・ロス主演の映画『ウィズ』で出逢い、意気投合した名匠クインシー・ジョーンズをプロデューサーに迎えアルバムの制作にとりかかります。

若き天才シンガーと、百戦錬磨のプロデューサーのタッグによる『オフ・ザ・ウォール』は、華麗なるダンス・クラシック「今夜はドント・ストップ」、スウィートでリズミックな「ロック・ウィズ・ユー」(2曲とも1位獲得)を含む、ポップス史上はじめて<1枚のアルバムから4曲のトップ10ヒットを生む>大ヒット作となりました。発売後数年間で約1000万枚を売り上げ(現在は約2000万枚)、それまでのJ5時代も含めてマイケルのキャリア最大の成功を収めたのです。

マイケルが何よりも嬉しかったのは、クインシーが彼の良き理解者となり、今まで突拍子も無く夢想的だとあまり理解されなかった自分のアイディアを大幅に取り入れてくれたこと、そして自身のペンによる独創的な「今夜はドント・ストップ」が大ヒットしたことにより、シンガーとしてだけではなく作詞作曲家としても超一流であることが証明されたことでした。

現在にして思えば、このアルバムの素晴らしさは、名プロデューサー、クインシー・ジョーンズによるマイケルの才能とマーケットに対する絶妙なバランス感覚の上で成り立っていました。『オフ・ザ・ウォール』は、マイケルとクインシー、世代と得意分野の違う驚異的な存在ふたりによる「新しいブラック・ミュージックの発明」でしたが、ここで大切なのはクインシーが一貫して「ブラック・ミュージック」の枠を守らせようとしたことです。彼らふたりは、後にマイケルの暴走により『スリラー』で「ブラック・ミュージックの枠を壊し、飛び越える」という偉業を<結果的に>成し遂げてしまうのですが、まだコントロールのきいていた『オフ・ザ・ウォール』ではクインシーはそこまでのトライをさせず、マイケルを抑えた。

実は、素顔のマイケルはこの時期、クイーンに夢中になり、発想が急速に「ロック化」していたのです。自分と同年齢の「ロック・スター」、プリンスの台頭にも刺激を受けました。しかし、クインシーは独自の嗅覚でマイケルを操縦し、急激な「ロック化」を認めませんでした。このことはマイケルに新たなフラストレーションと、次作『スリラー』へのモチベーションを与えることとなりました。

(7) 宿命

「オフ・ザ・ウォール」、「あの娘が消えた」と続いたシングル・カット攻勢により、'80年の夏になってもアルバム『オフ・ザ・ウォール』と「新生マイケル・ジャクソン」ブームは増幅し、終わりませんでした。
彼も本来ならその勢いを持って、ミュージシャンとして当時「相思相愛」の関係であったフレディ・マーキュリーとの共演も含む「よりロック的な」セカンド・アルバム(のちの『スリラー』)の制作に集中して入りたかったはずですが、その時点でのマイケルの肩書きはあくまでも「ジャクソンズのリード・ヴォーカリスト」のまま。ジャクソン一家がこのグループ最大のビジネス・チャンスを逃すわけはありません。

ファミリーのボスとして、そしてすべてを牛耳るマネージャーとしての権力を温存したい父親ジョーにとって、あくまでもマイケルの活動のメインは「ジャクソンズ」であり、ソロはマイケル自身のリフレッシュの為の「デザート」のような扱いであるべきでした。
本質的には優しく人の良い性格である兄弟達も、この頃は音楽制作に対する自我やプライドが絶頂に達し「マイケルに続け」と野心に満ち溢れていました。家族全員が、それぞれの思惑で、マイケルがソロ活動からグループへと戻る日を「今か、今か」と待ち構えていたのです。

実は、この頃マイケルの繊細な内面に大きな影響をおよぼす事件が起こります。父親ジョーに、愛人と隠し子がいたことが発覚したのです。それまでも父親との確執はありました。元々ミュージシャンになりたかったジョーは、少年時代からの拷問に近いスパルタ教育に加え、息子達が成功してからも彼らに嫉妬し、様々な方法で兄弟の自尊心を傷つけていました。その上、息子達の稼ぎ出した金を使い、様々な事業に投資し、そのほとんどで失敗、財政難を引き起こします。そんな中で衝撃的に浮かび上がった「異母兄弟の存在」。
母親キャサリンを女神のように崇めるマイケルにとって、この事件によって父親ジョーは「親」ではなく、完全なる「敵」となったのです。

父親から精神、ビジネス両面での完全な独立を果たすためには、ジャクソンズを脱退するしかない…。しかし、この時点でのマイケルは、物心つく前からずっと一緒に歌い踊ってきた兄弟達と離れ、完全にソロ・アーティストになる道を選択することも出来ませんでした。学校にまともに通えなかったマイケルにとって、兄弟は唯一の友達であり仲間と呼べる存在。その上、マイケルのグループからの離脱はジャクソン一家の崩壊を意味し、<ジャクソンズの存続>を切望する最愛の母親キャサリンを悲しませることになる…。しかし、父親とはどうしても関わりたくない…。

『オフ・ザ・ウォール』の大きな成功は、マイケルの家族関係、社会的な人間関係をよりややこしいものに変えてゆきました。彼は成人してまもない若さで、自分自身の巨大な才能に翻弄されたといってもいい一族全員の「宿命」を背負わねばならなかったのです。


(8) 『トライアンフ』

そのような状況の中で、ジャクソンズのニュー・アルバム『トライアンフ』のレコーディングがはじまりました。マイケルも兄弟達との共同作業を<『オフ・ザ・ウォール』でクインシーから教わったメソッドを自分なりに実現する場>としてとらえ、情熱を注ぎました。

ぼくはJ5時代よりも、マイケルのソロのすべてを含めても、この時期、'79年から'81年にかけてのギラギラしたジャクソンズと、乗りに乗っているマイケルが一番好きです。とはいえ、すでにマイケル・ジャクソンの存在は、グループに所属するには巨大になり過ぎ、『トライアンフ』が完成する頃にはジャクソンズはグループとしてのパワー・バランスを失ってしまっていたのです。

'80年9月、ジャクソン兄弟が「全員一致で協力して作った最後のアルバム」『トライアンフ』が発売されました。日本では「マイケル・ジャクソン&ザ・ジャクソンズ」という名義でリリースされてしまうこのアルバムは、マイケル旋風に乗って当然のようにヒット作となり、翌'81年夏に「トライアンフ・ツアー」として全米で39回という大規模なライヴが行われました。
ただし、この公演は前代未聞の大成功を収めたものの、今までのジャクソンズのツアーと本質的な部分が少しずつ変わってきていました。表面上は「ジャクソンズのツアー」と名乗りながらも、実際は『オフ・ザ・ウォール』の曲達を楽しみにしたファンが大半を占める「マイケル・ジャクソンのツアー」へと変貌していたのです。「マイケル・ジャクソン&ザ・ジャクソンズ」ならまだ良かったのです。しかし現実は「マイケル・ジャクソン&その他」という状況になりかけていました。

それぞれが「自分が引き立ててこそマイケルは輝いている」と思っていた自尊心が、このツアーから少しずつ歪められていきました。兄弟が「平等」ではない。まだまだ子供だと思っていた「マイケルだけ」が、大人のアーティストとして成功し、家族から独立しようとしている。それぞれの嫉妬、己への過信、ブームを利用しようとする者からの誘惑、経済的な格差などから、栄光の歴史を誇るジャクソン・ファミリーは頂点を極めた「トライアンフ・ツアー」の中で崩壊へと向かっていきました。

(9) 連鎖反応

ジャクソンズのアルバム制作と発売、そして大規模なツアーを全力疾走したマイケルにとって、'82年春から秋にかけての次作『スリラー』のレコーディングは、久しぶりに訪れる「自分の作品」作りでした。兄弟に煩わしい気を遣う必要もありません。長年揉め続けていた父親とのマネージメント関係もこの頃ほぼ完全に解消し、ジャクソンズとは別に、ソロ・アーティストとして独立しスッキリ再出発。彼は、パーフェクトな作品で、『オフ・ザ・ウォール』以上の成功を獲得することだけを目指していました。

そして、ここでようやく念願のマイケルとフレディとの数曲のコラボレーションが実現することになったのです。
マイケルがジャクソンズの一員として『トライアンフ』をリリースし、ツアーをしている間に、フットワークの軽いクイーンはダンサブルな「アナザー・ワン・バイツ・ザ・ダスト」を全米ナンバー・ワンに送りこみ、アメリカで最大の成功を収めていました。繰り返しますが、この曲はマイケルの為にジョン・ディーコンが作ったけれどアルバムが必要以上に「ロック化」することを好まなかったプロデューサー、クインシー・ジョーンズにより却下され返されたもの。
マイケルはこの曲を愛し、泣く泣くクイーンに戻したのですが、その時返された曲の処遇を迷っているメンバー達に対して「絶対にバンドでシングルにするべきだよ」とアドヴァイスしたことはすでに書きました。

そうやって彼らに返した「アナザー・ワン・バイツ・ザ・ダスト」が、全米第1位のヒットを記録したことで、マイケルはこの曲をボツにしたクインシーに対して溜飲を下げ、自分の審美眼に絶対の自信を持ったのです。

この曲は違う意味でもエポック・メイキングなシングルでした。この時期、ニューヨークの街角から「ヒップ・ホップ」と呼ばれる音楽革命が起こり、空前のブームを巻き起こしていました。
クイーンの「アナザー・ワン・バイツ・ザ・ダスト」のベース・ラインは、一世を風靡したディスコ・バンド、シックによる大ヒット曲「グッド・タイムス」に非常に強い影響を受けています。そして、もうひとつ忘れてはいけないのが、最初期の「ヒップ・ホップ」アーティストであるシュガーヒル・ギャングによる「ラッパーズ・デライト」という曲の存在。これはシックの「グッド・タイムス」を使って再構成したトラックの上に縦横無尽に軽快なラップが乗せられたもので、後世に強い影響を与えたヒップ・ホップ・クラシックです。

この2曲を踏まえた上で、クイーンはターンテーブルや機械を使ったサンプリングではなく、イギリスのハード・ロック・バンドが生演奏によってアメリカの黒人音楽を「逆ヒップ・ホップ的に再構築」することに成功したのです。

日本から世界に浸透したお寿司がアメリカで大流行し、新しくなって逆輸入された「カリフォルニア・ロール」のようなものでしょうか?

これは、サンプリングによってすべてのジャンルの音楽を支配下に置いた「ヒップ・ホップ」を、さらに「ロック・バンド」が飲み込んだという意味で非常に大きな事件でした。そしてこの曲が元々は「黒人音楽の申し子」とも言えるマイケル・ジャクソンに対して書かれたこと。そして、この曲を自分たちで演奏し、発表することにクイーンのメンバー達が動揺し、バンドで亀裂を生み、暗礁に乗り上げる寸前だったところをマイケルの強いアドヴァイスによって押し切られ、結果大ヒットした、という事実は音楽史的に非常に意義深いところです。

しかし、もっと詳しく注目すれば、クイーンが参考にした「グッド・タイムス」を作ったシック、その中心メンバーであるギタリストのナイル・ロジャースと、ドラマーのトニー・トンプソンは子供の頃からのレッド・ツェッペリン・マニア。クイーンのメンバーもレッド・ツェッペリンに多大な影響を受けていますし、レッド・ツェッペリンは黒人音楽を新しいスタイルで模倣し再構築することで生まれているのですから、ロックとソウル、ハード・ロックとディスコ、すべてのポップ・ミュージックとヒップ・ホップは卵と鶏のようなものでくっついて連鎖反応していると言えるのです。

おっと、あっという間に文字数が尽きてしまいました・笑。この時代背景は非常に重要な場所なので許して下さい。次こそ、未完成に終わったマイケルとフレディのコラボレーションに接近します。ここから物語は加速します!!!

 

西寺郷太 : 西寺郷太の「ミュ~塾!」

 

AUTHOR PROFILE:
西寺郷太

NONA REEVESのSINGER / SONG WRITER。東京生まれ、京都育ち。高校卒業後、上京し入学した早稲田大学で奥田健介、小松シゲルと出逢い、NONA REEVESを結成。1996年、ALBUM『SIDECAR』でDEBUT。以後、2007年の『DAYDREAM PARK』まで10枚のALBUMを発表。
2006年12月には、DEBUT 10周年を記念して今までの軌跡から橋本徹が選曲を手掛けた『FREE SOUL / NONA REEVES』が発売された。西寺郷太個人としても、中島美嘉、KAT-TUN、少年隊、土岐麻子、K、近藤真彦などへの作詞作曲提供、ラーメンズ、シティ・ボーイズなどの舞台音楽監督、PRODUCE活動を行っている。
また、NONA REEVESと並行したSOLO WORKSの場である「TEMPLE」としては、2006年秋、SECOND ROYALのFREDO『REMACK!』に「GLAND SLAM (TEMPLE'S SINGER, SONG WRITING & REMIX)」を提供している。
 

関連商品

煌いてグルーヴィー★無敵のブルー・アイド・ソウル・ポップ大傑作!!!
| 2CD | ¥3,000 | TOKUMA JAPAN | 2007-05-09