|
Electro/Headz
|
Techno
|
House
|
Upper House/Pop Dance
|
Big Beat/Mash Up
|
Rock/Indie 00's
|
Rock/Pops 60's~90's
|
Jazz
|
Soul/Funk
|
帯に記されているように、「[不失者][マージナル・コンソート]等で活躍した小沢靖(1958~2008)のメモリーズディスク。」が本盤の内容である。
園田佐登志氏による[小沢靖の思い出に]と題されたライナー・ノーツを、僕は興味深く読んだ。その冒頭には、76年当時、明大記念館の一室で「ほんの一握りの学友たちと毎週木曜日の午後5時から9時まで」開いていたという、「現在の音楽ゼミナール」なる集まりについての記述がある。
「通称「現音ゼミ」は今になって思えば、その後の幾つかのバンド結成や連続企画、吉祥寺マイナー等の活動拠点に連なる興味深い胎動を少なからず孕んでいた。[連続射殺魔]のギタリスト和田哲郎(琴桃川凛)やベースの浜野純、新潟から上京したばかりの大里俊晴、大阪を離れ渋谷に居を構える山崎春美、それにフールズ・メイト編集長の北村昌士もここを訪れた。そんな来訪者の中で、小沢君はなぜか某大学の"ロッキング・オンの会"の連中とつれだって、ひときわ寡黙な足取りでやって来た。」
僕が小沢さんのことを知るのは78年のことだった。ロッキング・オンのライター、岩谷宏が立ち上げた劇団「名無し人」の第2回公演でPAを担当したのが小沢さんだった。「名無し人」の第1回公演には山崎春美も参加していた。山崎春美と一緒に劇団に参加した山本哲は「名無し人」が劇団「キラキラ社」と名前を変えてからは脚本、演出を手懸けるようになるのだが、連続射殺魔の和田哲郎とは中学の同級生で、連続射殺魔のオリジナルには山本が作詞した曲もある。小沢さんにPAを依頼したのはその山本だった。山本もまた「現音ゼミ」に出入りしていたのだろう。当時、山崎春美と山本の会話の中で「現音ゼミ」という名称を幾度となく耳にした覚えがある。
小沢さんは、その後も公演の度にPAを担当してくれることとなった。当初、役者として参加していた僕はいつしか選曲も受け持つようになった。公演直前になると、劇中のBGMとして使用することが決定した曲を、本番の音出しに使うオープン・リールにレコードから録音するという作業がある。使用するレコード数十枚を持って夜遅く、町田の小沢さんの自宅を訪れて行なわれるその作業は、いつも徹夜になった。
ある時、使用するレコードの中にトーキング・ヘッズの「リメイン・イン・ライト」があったことをきっかけに、小沢さんとの会話がP・ファンクへと及んだことがあった。小沢さんは一本のビデオ・テープをデッキに入れプレイ・ボタンを押した。それはブーツィー・コリンズのライブを記録した映像だった。観客は100%黒人と思われるそのドス黒い熱気に、レコードだけではわからなかったファンクの深淵をのぞいたような気がして、僕はおののいた。小沢さんが黒人音楽にも造詣が深いということを、僕はその時に知った。
数年後、僕が自分でラップを始めようと思い立った時、オリジナルのトラックを作るために家にあったレコード・プレイヤーでスクラッチを試してみたのだが、どうやってもうまくいかない。もしかしたら小沢さんが何か知ってるかもしれない、そう思って電話してたずねると小沢さんは即答してくれた。
「あれはテクニクスのSL-1500ってターンテーブルじゃなきゃだめなんだよ。」
当時、そんな情報はどんな雑誌にも載っていなかった。早速オーディオ専門店にSL-1500を探しに行った僕は、SL-1500の次世代機、SL-1200が出ていることを知り、それを購入することになる。小沢さんがいなかったら、僕がヒップホップを始めるのは半年か一年は遅くなっていただろう。
そうして、ラッパーになり劇団を辞めた僕は、その後は小沢さんと連絡を取ることもなかった。しかし、2年前に灰野さんとセッションする機会を得てからは、小沢さんともいずれ同じステージに立つ機会があるのではないかと楽しみにしていた。が、それはもうかなわない。
ところで、本盤(P.S.Fレコーズ/PSFD-186)には、ANARKISSなる「一回きりのJokingバンド」による77年の9月14日、吉祥寺マイナーでの演奏が収められている。これは、ガセネタ以外で浜野純のギターが聴ける唯一の音源ではないだろうか。SEX、自殺、PAINも出演したこの日のライブに僕は観客としていたはずである。PAの小沢さんと会う前にミュージシャン小沢靖に会っていたことを本盤で初めて知った。
御冥福をお祈りします。