安孫子真哉 : 安孫子真哉: 第一回「Organism Addict」 - [2019-03-05]

冬が雪景色でない事はそれは確かに生活を営む上ではとても助かるものではあるのだがそれを考慮したとしてもやはり冬のムードを存分に味わうには何だか心もとない。
東北の山形県で生まれた自分が、東京での生活を経由して群馬県に住む事になるなんて全く思いもよらなかった。
私の住んでいる群馬の地域は冬に赤城おろしと呼ばれるとても強く冷たい北風が吹く。それでもやっぱり降らない雪はとても恋しい。あと何年かすればいっちょまえに赤城おろしで冬を実感できるようになるのだろうか。

冬場の音楽鑑賞はわりと頻繁に中学2年生の頃の山形の実家の自室にタイムスリップする。
ある日コタツの上に置かれていた「これを聴け!」と殴り書きされた従兄弟からのミックステープ。
70's Punkオンリーのセレクトで、1曲目のSex Pistols"Holidays In The Sun"の足音のSEから飛び出してきたギターのジャガジャーン!のあの一発!本物のドキドキがスタートした瞬間だった。少しの誇張すらも無く本当にあれから自分は変わったんだと思う。それがどうやら今もずっと続いているようだ。未だ遠い記憶だなんて思えないもの。もうパンクの事でずーっと頭はいっぱいになっていた。

この数年、決まって12月30日と31日にステレオ、あるいは頭の中で自然と再生される曲がある。
Misfitsの"I Turned into a Martian"。
自分の中だけの宝物のように思い馳せていたパンクであったが、それでもしばらくして中学の同級生数人とその感動と興奮を分かち合い始めていた。ユウジ君、僕はゆうちゃんと呼んでいたのだが、この曲はゆうちゃんがとりわけ大好きな曲であの頃の僕らのテーマソングだった。
色黒で坊主頭、肩幅がっしりで立派な野球ケツ、熱狂的なダウンタウン信者、かなりのシャイボーイ。持ち物検査でマンガ「特攻の拓」の所持が見つかり没収。授業中ゲームボーイをやろうと音量を最小にしたつもりが最大になっていて電源ON時のピローン音で即バレ没収。

1993年。寒河江市立陵南中学校の昼休みの校内放送でパンクロックが静かに鳴り響いた。僕は抑えきれない興奮を必至に隠しながら母親の手作り弁当を食べ続けた。放送委員だったゆうちゃんの仕業だ。真面目にも不良にもなれない我々のささやかな反抗。実際の毎日は何一つ変わらなかったんだけど、それでもあのひとときは十代の鬱憤を受け入れてくれたような特別な感覚を抱いた事をなんだかよく覚えている。

高校に入れば中学の友達連中も最初は疎遠になりそうだったけど。それでも高3の夏休み以降からはまた毎日毎日ゆうちゃん含め友達10人くらいが代わる代わる放課後になれば自然と僕の家に集まるようになり爆音でパンクロックを流しマンガ読んだり、当時ヘアヌード雑誌へと変貌した宝島を眺めたり、くだらない事やってホームビデオ撮って遊んだり。毎日がスペシャルだった。

高校を卒業してみんな新しい場所へ散らばった。僕は東京へ、ゆうちゃんは仙台へと。別れの日は野郎ども10人くらい集まって柄にも無く涙を堪えながらしょんぼりしてたな(笑)。
ばらばらになったけど、それでもゴールデンウィーク、お盆、正月はみんながほとんど必ず帰省してきて遊んでは、変わらないで欲しい居心地を確かめていた。

ゆうちゃんといえば、仙台での一人暮らしを大変満喫しているようで半年で近所のレンタルビデオ屋のアダルトコーナーを全制覇してしまい隣町のビデオ屋に遠征してるだの、ノーパンBarのまこっちゃんという女の子にハマっているだの相変わらず愉快だ(笑)。実家からお米を送ってもらう時によくおばあちゃんからの「孫思ふ 〇〇〇〇〇〇〇 〇〇〇〇〇」みたいな句が同封されていていちいち泣けるとも。

大人になってからも変わらないね。実際数年前ですら友達のてっちゃんの首にイボが出来てそれの摘出手術をするというグループLINEが来た時には、ゆうちゃんはそんな全然大した手術でもないのに、わざわざ自分のフル勃起したイチモツに「てっちゃんがんばれ!」なんてマジックペンでメッセージを書いた画像を送ってくれたね(笑)。あれはクソ笑ったな(笑)。

ゆうちゃんは自分がバンドをやっている時、仙台でライヴがあればどんなに仕事が忙しくても来てくれてライヴ後もずっとお酒に付き合ってくれた。
3.11以降か。確かに元来お酒好きではあったけど、ゆうちゃんの酒量が増えたのは。仕事柄凄惨な現場に数多く行ったとは言ってたけど、詳しくは話したがらなかったな。休日は起きた瞬間からビールを飲むとも。ちょっと心配。指が震えるとも。

僕がレーベルを始めた時、最近全然音楽聴いて無かったけどなんだかめちゃくちゃおもしろそうだねー!燃えてきた!また久々に音楽聴くわー!なんてとても嬉しい言葉をくれた。あの頃みたいにまたみんなで音楽を楽しめたらいいな。

 

2015年12月30日早朝。山形の実家に帰省するべく電車の空いている座席に腰を下ろしほっと息をつく。しばらくして地元の友人からの着信とメールがあった事に気づく。
そしてそれはあまりにも唐突に、ゆうちゃんが亡くなった事を告げていた。
僕はただ妻と娘が車窓を眺めながらにこやかに談笑している姿を見つめ続けていた。

交通事故だったそう。

明日の大晦日はゆうちゃんの誕生日だった。
その何回か前の大晦日は恋人に先立たれている。

僕らは永遠のものになった。忘れることなんてないしね。
なかなか会えない場所に住んでいるだけだ。今までもしょっちゅうあったし、会いたいのに会えないのは。みんなと遊んでいる時も、いないアイツのアホ話になってゲラゲラ笑ってるなんてよくあった事だ。アイツはただ電話を持ってないだけなんだ。

そんな風に思うしかないだろ!クソッタレ!

お盆には君の家にお呼ばれしてご両親と友達と毎年お酒を呑んでいるよ。
スーツ新調してたみたいだね。お母さん見せてくれたわ。裏地に麻雀の大三元の配列の刺繍施してたのね(笑)。また別のスーツの刺繍は「ご り ら」だった(笑)。相変わらずみんなで笑ったよ!

前を目指して進んでいる、その背中を支えている思い出が時折自分を追い抜いていく。だから後ろを見つめる必要なんて無いんだ。
これまで出会えてきたいい顔は何度でも未来で待っている。