ECD : 失われたWANT LIST - 北原ミレイ『生きていようよね(B面) 』 [2016-11-25]

 中古レコード店で演歌のコーナーがある店だと北原ミレイのレコードは必ず演歌のコーナーに収められている。ウィキペディアでもジャンルの項に演歌・J-POP・歌謡曲と記されている。

 北原ミレイの代表曲といえばやはり1970年のデビュー曲「ざんげの値打ちもない」だろう。この曲は僕も10歳の時に聴いて「細いナイフを光らせて にくい男を待っていた」という歌詞に衝撃を受けたものである。1970年といえば藤圭子の「圭子の夢は夜ひらく」が大ヒットした年である。前年1969年には森進一が「湊町ブルース」をヒットさせている。子供心にも藤圭子や森進一の歌はまぎれもない演歌であると認識していた。しかし、「ざんげの値打ちもない」は演歌には聴こえなかった。

 それもそのはず「ざんげの値打ちもない」の作曲者は村井邦彦である。タイガース、スパイダース、テンプターズ等グループサウンズに曲を提供することで世に出てのちには荒井由美をデビューさせた人物だ。村井邦彦は「ざんげの値打ちもない」に続いて71年には「棄てるものがあるうちはいい」72年には「流れる」も手がけている。ちなみにこの頃に北原ミレイに曲を提供しているのは71年の「何も死ぬことはないだろう」が筒美京平、72年の「別れの匂い」が鈴木邦彦とやはりポップス系の作曲家ばかりだ。演歌を得意とする作曲家だと浜圭介が75年にヒットした「石狩挽歌」を手がけている。その後も浜圭介は多数の曲を北原ミレイに提供している。浜圭介は八代亜紀の「舟唄」「雨の慕情」の作者である。やはりこのあたりで北原ミレイは演歌の歌手であるというイメージが定着したのであろう。しかし、そうなってからも北原ミレイは山崎ハコや五輪真弓による提供曲も歌っている。やはり演歌の枠には収まらない歌手なのだ。

 同じようにレコード店だと演歌のコーナーに収められているが演歌の枠に収まらない歌手にちあきなおみがいる。しかし、ちあきなおみの曲で演歌と言えるのは「さだめ川」と「矢切りの渡し」くらいではないのか。それだけで演歌歌手のレッテルを貼られてしまう。ちあきなおみは例えばあの「夜へ急ぐ人」において友川かずきが曲を書いているのはちあきなおみ本人が友川かずきの歌う姿をたまたま目にして感動し本人自らオファーしたのである。ちあきなおみにはそうしたアーティストとしての主体性がはっきりと見える。それに対して北原ミレイはどうか。これがどうもよくわからない。例えば山崎ハコの起用などは「ざんげの値打ちもない」の強力なイメージに山崎ハコの楽曲に特徴的な暗い情念を重ね合わせたスタッフによるものと推測することもできる。そうかと思えば全くヒットはしなかった「夢うつつ」という曲にものすごいオシャレなアレンヂがほどこされていたり。本人のアーティスト性なのかどうかはわからないがとにかく掘りがいのある歌手であることは間違いない。ウィキペディアのディスコグラフィーによるとシングルだけで実に51曲にのぼる。ウィキペディアにはなぜかアルバムのディスコグラフィーは掲載されていない。しかし、僕が中古レコード店で目にしただけでもアルバムの数も相当数にのぼるはずだ。とにかくリリース量が多い。

 そんな中、目下僕が一番好きな曲が今日紹介する「生きていようよね」である。山崎ハコが作曲した「白い花」(ワーナーパイオニア / L-37P)がA面のシングル盤のB面に収められている。作詞作曲は北炭生。フォーク・シンガーである。「生きていようよね」は北炭生が75年に発売したデビュー曲である。つまり、北原ミレイの「生きていようよね」はカバーなのだった。残念ながら僕はオリジナルを聴いたことがなかった。当時どの程度ヒットしたのかもわからない。そんな曲を北原ミレイはどうしてカバーしたのか。確かに素晴らしい曲なのは間違いない。そして、こういう曲を選曲したのが本人なのかどうかがやはり気になる。それとも余程優れたスタッフが北原ミレイには付いているのか。

 そんなことを考えていると逆に歌謡曲が作られる過程が一アーティストが独断で作る世界よりも余程、複合的で面白いのではないかという気もしてくる。そして、そんな中で独自の世界を見せてくれる北原ミレイもやはり素晴らしい歌手だと思うのだ。