Dr.Looper / 2019-07-04

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HARD TIMES

BABY HUEY - HARD TIMES

レア・グルーヴ~ブレイク・ビーツ古典、スーパー・レア7"シングルが再発!!

7" |  ¥2,600 |  SOUL BROTHER (UK)  |  2024-03-01 [再]  | 
良心的な再発を続ける英Soul Brotherから、またしても素晴らしい7インチ盤が届きました。全世界的に値段が高騰している、Curtomからのオリジナル盤(1971年)と同じ曲の組み合わせで、A面B面ともにヒップホップ世代的に重要な曲、という点が特徴的な一枚ですが、まずはA面の"Listen to Me"。Kool & the Gangの"N.T."などと同じく、『Ultimate Breaks Beats』(以下『UBB』)の17番、通称「レディオ・ボーイ」に収録されていました。曲の後半のドラム・ブレイクよりも、中盤のホーン・ヒットのフレーズを引用されることが多いのは、なんといってもEric B. & Rakim"Follow the Leader"(1988年)がきっかけでしょう。当時のEric B. & Rakimには、そうしたサウンド面のトレンドに影響を及ぼすほどの勢いがあった、ということでもあります。そしてB面の"Hard Times"。曲中にドラム・ブレイクはありませんが、「髪の毛が逆立ちそうな」冒頭の一小節ループがやはりラッパーの魂を揺さぶるらしくて、古くから数多くのヒップホップ楽曲で引用されてきました。Chill Rob Gの"Ride the Rhythm"(1989年)や、Biz Markieの"The Dragon"(1989年)あたりはいわゆるモロ使いという感じで、パーツでのサンプリングとしては、A Tribe Called Questの"Can I Kick It?(Spirit Mix)"(1990年)なども印象的ですが、とどめはやはりGhostface Killahの"Buck 50"(2000年)になるでしょうか。両面曲とも一聴すると、当時サンフランシスコ~ベイエリアで流行っていた、リード・ギターの主張が強いファンク・ロックの曲のように聴こえますが、実はシカゴ・ソウルの由緒正しいレーベル、Curtom Recordsからのリリースです。パラマウント映画の巨大なアヒル・キャラに体型が似ていたことに由来して、後にBaby Hueyと名乗ることになるこの巨漢の白人シンガー(体重が180kg超えだったそうです)は、1944年インディアナ州で生まれ。そこからシカゴに移住したあと、1962年にはBaby Huey&the Babysittersという名義のトリオでデビュー。60年代後半からはかのSly & the Family Stoneの影響を強く受け、サイケデリック・ロックとファンクを融合させた曲を演奏するようになっていったのでした。Baby Hueyが大きなマントを羽織っている画像をよく見かけますが、あれはステージで使用した、サイケデリックなアフリカ風ローブなんだそうです。シカゴで開催されたオーディションで、Donny Hathawayと知り合ったことを機に、なんと御大Curtom Mayfieldのプロデュースによるアルバム制作が実現(しかもその際に彼から提供を受けたのが、"Mighty Mighty"、"Hard Times"、"Running"の3曲)。本盤もそうですが、アルバムを通してCurtom Mayfield特有のクセをさほど強く感じさせないのは、Baby Huey自身のペースで演奏させつつ、その時点で既にベテランだったCurtis Mayfieldが、2歳年下の彼を通じてサイケ・ロック~ファンクの体得を試みていたからかもしれません。「黒人の影響下で白人が作ったロック」ではなく、「白人を使って黒人が作ったロック」という意味で、本盤はElvis Presleyへのカウンターと言えるのかもしれませんね。名門Curtomで好待遇を受けて、ヒット曲の量産が期待されたBaby Hueyですが、肥満とヘロイン中毒が原因で、1970年に26歳の若さで亡くなりました。そう、彼が残した唯一のアルバム『The Baby Huey Story - The Living Legend』も、そして本盤のオリジナル7インチ盤も、実は彼の死後に発売されたものなのです。彼の没後に残されたバンド・メンバーは、当時まだ十代の少女だったChaka Khanをシンガーに迎えて再起を図る、という構想もあったらしいのですが、残念ながらそちらは頓挫してしまったそうです。もし実現していたらどんな作品だったのでしょうか。そのうちにお蔵入りのデモ音源が出てきたりして。
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REVELATION / BLUE NEPTUNE

TARIKA BLUE - REVELATION / BLUE NEPTUNE

ギタリスト川崎燎が参加した、'76年ジャズ・クロスオーヴァー傑作が7インチ・カット!!

7" |  ¥2,250 |  DYNAMITE CUTS (UK)  |  2023-05-11 [再]  | 
ミュージシャンは数奇な人生を辿る人が多く、誰であれ1本どころか3本ぐらいドキュメンタリー映画を撮ることが出来るぐらいのエピソードがあると思うのですが、川崎燎さんに至っては、とりわけ変わった人生だったのではないかということが想像出来ます。1947年(加藤和彦さんやツトム・ヤマシタさんと同学年)に東京で生まれ、青山学院中等部の2年生の頃にギターと出会い、Glenn MillerやDuke Ellingtonなどのジャズを聽きながら独学でギターを習得。幼少期からラジオやアンプを自作するほどの理系少年だった川崎さんは、日本大学に進学して量子力学を学ぶ一方で、ジャズ・ギタリストとしての活動も始め、1970年にポリドールからの『Easy Listening Jazz Guitar』でアルバム・デビュー。大学時代のバンド仲間には、まだ筒美京平という名前になる前の渡辺栄吉さんもいらしたそうです。そして同年、杉本喜代志、増尾好秋、高柳昌行という当時若手だったギタリスト4人で、アルバム『Guitar Workshop』をリリース。このそうそうたる面々のその後の活躍からも分かるように、川崎燎さんも国内屈指のジャズ・ギタリストとして前途洋々だったはずなのですが、日本での活動をぷっつりと断ち切り、1973年に突如渡米してニューヨークへと移住してしまいます。ジャズのギタリストとして本場で腕を磨くためだったのか、外交官だった父親からの影響なのか、それとも日大闘争の反動なのか、その理由は定かではありません。が、ともかくそれ以来数十年間は向こうを拠点に活動を続けられたのでした(現在はエストニアを拠点に活動中)。本盤はその川崎燎さんも参加した、キーボーディストPhil Clendeninnを中心とした前衛ジャズ・グループ、Tarika Blueの1st.アルバム(1976年)からのシングル・カット。両面とも世界初の7"シングル化です。世界的にハードロック旋風が吹き荒れていた時代だったことも関係してなのか、演奏は当然エネルギッシュで若々しく、まるで細くクネクネとした一本道を猛スピードで飛ばしているかのような、危険な事故すれすれのジャズ、という印象です。ところで1970年代のニューヨークといえば、現在でも「最悪の1970年代」として語り継がれるほど、差別と暴力、貧富の差に溢れていた混沌の時代でした。そうした社会不安など様々な問題を抱える人々の様子や、そこから巻き起こる社会運動などを横目に、自身が抱える問題や衝動のアウトプットとして音楽と向き合い、凄まじい演奏を残した若者(当時は20代後半)の記録として聴くと、これほど激情的な演奏であるにもかかわらず、その迸る若さがなんとも愛しく聴こえてくるのでした。自分が歳をとったということもあるでしょうけど。
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HIHACHE / SING SING

LAFAYETTE AFRO ROCK BAND / GAZ - HIHACHE / SING SING

ブレイク・クラシックのファンクをリエディットするBreaks & Beats第11弾!!

7" |  ¥1,950 |  BREAKS & BEATS (UK)  |  2022-05-09 [再]  | 
Skull Snapsの"It's A New Day"や、Whatnautsの"Why Can't People Be Colors Too?"などと並んで、『UBB』に収録されなかった名ドラム・ブレイクの代表格、と言える一曲がついに7インチで再発されました。Okapi Recordsに残した唯一のアルバムが今世紀になってから発見されて、にわかに脚光を浴びているBobby Boyd Congressというグループがありますが、そのグループを母体として派生したバンドがLafayette Afro Rock Band。ニューヨークで結成されて、1970年代初頭にメンバーがフランスへと移住。母国や地元ニューヨークではさほど有名ではありませんでしたが、移住して以降は「傑出したファンク・バンド」として、パリをはじめヨーロッパ各地で高い評価を受けました。1978年に解散するまで、彼らはIce、Crispy&Co.(ヨーロッパではKrispie&Co.)、Captain Daxなど、様々な名義でレコードをリリースし続けたことも知られています。さてこの曲の、3拍目裏のオープン・ハイハットが印象的なドラム・ブレイクの使用例といえば、まず真っ先に思い出されるのがBiz Markie"Nobody Beats the Biz"(1987年)です。大好きなドラム・ブレイクだったので自分も使ってみたかったのですが、なぜか『UBB』には収録されていなかったので、「複数のブレイクを使って組み替えたものなのかな?」などと勝手に思い込んでいた自分が、アルバム『Soul Makossa』(1973年)を聴いたときの驚きは、恐らく一生忘れることがないでしょう。まだ渋谷の雑居ビルの地下にあった頃のDance Music Recordsに、ジャケ無しカット盤のデッドストックが大量に入荷していたので、試しに買って帰って聴いたのですが、そのブレイクを耳にした瞬間、思わず手が震えたことを今でも覚えています。なんであの時もう1枚買いに行かなかったんだろう・・・。タイトルからも分かるように、当時フランスから世界的なヒットを飛ばしたManu Dibangoにあやかったもので、Lafayette Afro Rock Bandのアルバムの方は残念ながらヒットには至りませんでしたが、この"Hihache"のドラム・ブレイクは上述のBiz Markie以外にも、Janet JacksonやLL Cool J、De La Soul、Naughty by Nature、Digital Underground、Wu-Tang Clanほか数多くのヒップホップ世代のタレント達から引用され続けたのでした。ちなみに2009年に一度だけ7インチ化されたのですが、あっという間に店頭から消えてしまって、現在ではそれすらもなかなかお目にかかることができない一枚になっています。一方B面の"Sing Sing"(1978年)は『UBB』の4番、通称「赤」に収録されています。プロデューサーだったJürgen Korduletschを中心とする3人組企画ユニットによる代表曲で、Grandmaster FlashからKylie Minogueに至るまで幅広く引用されています。こちらも2014年のKenny Dopeリミックス以来久々の7インチ再発。しかも、曲の頭とお尻をひっくり返したような、ドラム・ブレイクを先に持ってきた使いやすいエディットになっています。
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E A VIDA QUE DIZ

CELSO RUBINSTEIN - E A VIDA QUE DIZ

極上ブラジリアン・メロウ・アーバン・ソウル~AORの激レア7"がジャケ付で復刻!!

7" |  ¥1,980 |  VIVID SOUND (JPN)  |  2019-03-06 [再]  | 
Rhymesterの記念すべき1st.アルバムがフェード・インで始まること、そしてその曲がSergio Mendes & Brazil 66からの引用であること。そしてそれは何故なのか。実は、我々の親たちの年代はちょうどセルメン・ブームの中心を担った世代であり、当時はどの家庭にも日本で大ヒットしたSergio MendesのLPがひと掴みぐらい眠っていたのです。そうした過程に育った我々は、サンプリングという手法を通じて、それらに再び針を落とした世代であり、Rhymesterのデビュー作の冒頭部分には、そのサンプリング世代の宣言でもあった訳なのです!・・・というのは今しがた考えたただのこじつけなのですが(笑)。ここにブラジル音楽との個人的な関わりを真面目に書いておくならば、高校時代に聴いていた渡辺貞夫~松岡直也のフュージョン方面から辿り着いたGary Mcfarlandや、浪人生時代に聴いていたA&Mレーベルのラインナップや、ソフトロック路線を経由して行き着いた前述のSergio Mendes、大学時代に聴いていたレア・グルーヴ方面から通っていったAzymuth~CTIのラテン寄りの作品、あるいは坂本龍一~アート・リンゼイのボサ・ノヴァ方面を経由してのNana Vasconcelos、そして現在のジャジー・ヒップホップ方面から繋がるLucas Arruda・・・といった具合に、若い頃から今に至るまで、どの時代にも必ずそこへの導線が存在していたことに驚かされます。自分が気に入った音楽を遡っていくと、必ずブラジル音楽へと漂着してしまう不思議な真理。Marcos ValleとLeon Wareの邂逅が象徴的ですが、実はどうやら(ヒップホップのネタにもなりそうな)メロウ・ソウルとブラジル音楽との関係は深いようです。これまでは「ブラジル音楽の中にもメロウな曲やA.O.R.寄りの曲がある」と自分の中で認識していたのですが、もしかするとそうではなくて、「ブラジル音楽のエッセンスを一部取り入れたものが、メロウな曲でありA.O.R.な曲」という見方が正しいのかもしれません。そもそもブラジルという地理的にも日本から最も遠い国の音楽なのに、なぜこんなにも強い影響を受けているのか不思議で仕方がないのですが、もしかすると地球の裏側同士だからこそ磁場のような力が働いて、互いに強く作用するものなのかも・・・なんて。さて本盤ですが、流浪のシンガーCelso Rubinsteinが1982年にひっそりと残した幻の一枚。プロデュースを担当したのはドラマーのChico Bateraで、Banda Black RioやCravo & Canelaのメンバーがバックを固めた、最高のメロウ・グルーヴ作品です。500枚限定での復刻らしいので、ぜひ。
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SO HARD TO FIND / THE RIGHT ONE (KENNY DOPE REMIX)

PAZAZZ - SO HARD TO FIND / THE RIGHT ONE (KENNY DOPE REMIX)

マイアミで結成された3人組グループPazazzが残した唯一の激最高シングルがリイシュー!!

7" |  ¥2,150 |  KAY DEE (USA)  |  2019-06-25  | 
茨城県の那珂に新しくレコード屋ができると聞きつけて、初めてその店にお邪魔したのは、オープンからひと月ほど経った2016年5月17日のことでした。高速を降りて田舎道を走っていくと、田んぼだらけの街道沿いにポツンと建てられたモダンな建物を発見。中に入るとフューチャー・レトロ感覚の洒落た什器や、モダンな革張りソファー、見上げると美しいデザインの照明具などが。一体ここが何処なのか一瞬分からなくなってしまうほど、窓の外に広がる牧歌的な風景とのギャップに驚かされました。もともとレコード蒐集家だったご主人からコーヒーをご馳走になりながら、お店をオープンした経緯などを伺いつつ、音楽談義のようなやり取りをしつつ、気が向いたら再びレコードを掘りつつ、という至福の数時間を過ごさせて頂きました。3時間ほど滞在した挙げ句、ようやく購入するものをまとめたのですが、一人暮らしの大学生の家賃ぐらいのお金と引き換えに譲って貰った7インチ・シングル12枚の中に、この曲のオリジナル盤も含まれていたのでした。1974年にマイアミで結成されたPazazzは、ギター、ベース、ドラムの3人組バンドで、ビーチ・ホテルや地元クラブの箱バン(専属バンド)として当時活動していたようです。70年代後半にはノルウェージャン・クルーズラインとも契約したのですが、彼らが大型客船の中で演奏していた時期に、クルージングの搭乗客への販促物としてプレスされたのが、彼ら唯一の7インチ盤"So Hard To Find / The Right One"だった、というわけです。銀色ラベルの1st.プレスは500枚限定でしたが、その出来に納得のいかなかったギターのTony Castellanosによって再度刷り直されたのが、赤色ラベルの2nd.プレスの方だそうです。しかし結局のところ、本人的にはどちらの仕上がりにも納得がいかなかったようですね。バンド自体は1981年に解散しましたが、十数年後にL.A.のレコード蒐集家Mike Veghによって件の7インチ盤のデッドストックが発見されて、それを機に再評価の機運が高まると、2015年にはNow-Againより、Kenny"Dope"Gonzalezがリミックス・ヴァージョンの12インチ盤としてこれら2曲をリリース。そして今回はそのKenny Dopeによるヴァージョンの初7インチ化となります。オリジナル盤はなかなかお目にかかれないので、この7インチ化を望んでいた方も決して少なくはないはず。今回の機会にぜひ。余談ですが、件のレコード店で散財したあと、初めてのお店を訪れたとき特有の興奮を落ち着かせようと、外に出てゆっくりと煙草を吸ったのですが、さっき店内の試聴機のヘッドホンから聴こえてきた、マイアミ産ならではのムンムンとした熱気に溢れた演奏と、眼の前に広がる日本の田園風景の、ひんやりとした空気の中で響き渡る蛙の声とがあまりに対照的で、思わず独りで苦笑いしてしまったことを思い出します。アメリカのマイアミ・ビーチから、茨城県の那珂まで、一体どういう経路で、またなんの因果で、その7インチ・シングルはやって来たのでしょうね。そんな想像力を掻き立てられることもまた、レコード掘りの大きな魅力だと思っています。

Dr.Looper

Profile

1979年よりレコードを買い始め、その魅力に取り憑かれたまま今に至る。1990年から1998年までRHYMESTERに参加。現在はROCK-Tee(ex.East End)とL-R STEREOとして活動中。

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